明治期から昭和まで活躍していた有名人がその伝記を見ると生家は別で養子に迎えられその姓となったという記述が多いことに気付きます。
一方、現在の方がかえって政治家・芸能人など世襲が多いことも周知のような状況です。
家と言うものに価値があった時代にそれを継がせるという意味であったにせよ優秀な若者を援助しさらに我が家を継がせるという風習が深く根付いていた(そして現在では途絶えてしまった)ということは二世議員全盛の現在こそよく考えるべきことなのかもしれません。
そういった「養子」として迎えられ活躍した明治大正期の政財界、学者文化人等の伝記をコンパクトにまとめられた本書ですが、その意味と言うものは深いものがありそうです。
挙げられている人々は、小川環樹、湯川秀樹などの学者の父小川琢治、清水建設創業の清水喜助と満之助、順天堂の堂主佐藤尚中とその養子たち、福沢諭吉の婿桃介、キッコーマンの茂木啓三郎、鹿島建設の鹿島守之助、吉田茂などです。
まだ家が単位での社会の中では後継ぎがいない家ではそれを何とかしなければならないというのはもちろんですが、候補者の中から一番優れたものを養子とすることで家業を発展させるチャンスでもあったわけです。
また養子となる側にしても経済的に困窮している家に生まれた場合は教育を受けるにも何らかの援助が必要となるのですが、それを受けるために養子となる例も多かったようです。
さらに、商家の場合は実子があってもそれには家を継がせずに有望な者を娘の婿として後継ぎとする例も多く見られます。
日本橋の紙問屋中村庄八商店は1783年に創業し以来7代にわたって実子には相続させず男子は別家させるか養子として出してしまい、娘に婿を取って継がせるということを家訓として守ってきたそうです。
商家にとっては継ぐべきものは「血筋」ではなく「暖簾の信用」であったということです。
なお、本書の論旨とは直接は関係ありませんが、吉田茂の伝記の中で少年期に藤沢の耕余義塾で学んだとありました。これはかつて私が住んでいた場所のすぐそばにあった明治時代の私塾でした。現在は何の跡もありませんが、跡地という立札だけが立っていました。現在では住宅地の中になっていますが、懐かしい風景です。
本書の主張とはやや異なるかもしれませんが、アメリカも養子を迎えるということが広く行われています。日本ではよほどのことが無ければ養子縁組と言うことをしない様な風潮ですが、過去においては決してそうではなく養子と言うことが通例であったようです。
現在ではかえってぼんくらの実子に相続させることの弊害が政界、芸能界ばかりでなく経済界にも蔓延しているようです。どうにかならんのか、よく考えてみるべき問題かもしれません。