爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「”生き方”の値段 なぜあなたは合理的に選択できないのか」エドアルド・ポーター著

人間ひとりの命の値段と世界の値段は等しいなんて言いますが、実際は何らかの事件で犠牲になった人には補償金が支払われ、また人が死亡するかもしれないリスクの対策としていくらの費用を掛けるかと言うことは厳密に命の値段に見合うかどうかで決定されます。

このように、命だけでなくあらゆるものに値段が付けられているのですが、人生のさまざまな場面でその値段と言うものを考えもせずに生き方を決定しているのが人間と言うものです。

そういったあらゆるものに付けられる値段というものについて、ニューヨークタイムズ紙の記者であるエドアルド・ポーター氏がいろいろな方向から書いています。

 

取り上げられているものは、「モノ」「生命」「幸福」「女性」「仕事」「無料」「文化」「信仰」「未来」についてです。値段が付けられないと思われるものもありますが、よく考えてみるとちゃんと値段をつけているということが思い当たります。

 

なお、それぞれについて民族、国、文化、時代によってその値段の付け方というものは大きく差ができます。生命の値段も先進国ではかなり高いものになりますが、そうでない国では非常に低い価格でしかありません。

女性の値段というと怒り出す人もいるでしょうが、実際に値段をつけて考えられていた時代・国もあった(今もある)ものです。そしてその価値も大差があるのも同様です。

 

「無料」の値段という章で取り上げられているのは、ネット社会における著作物の権利です。音楽や文章など、著作権のあるものでもネットで無料で手にすることができるということで、音楽家や小説家などの収入が激減し、生産意欲が落ち込むということにもなってしまいました。

そういった行為をする側にも主張はあるのですが、やはり創作意欲を失くすというのは大きな問題です。ただし、音楽家に権利というものがあるというのも近代以降のごく限られた時代であり、それ以前にはそのような考えも無かったのですが。

 

「生命の値段」というものは、事故の犠牲者の補償金という面もありますが、一方では安全のためにいくらなら払うかということでも推測できます。

親が子供の自転車用ヘルメットをいくらなら買うかという行動を見ると、親が子供の値段をいくらと見積もっているかと言うことが分かります。アメリカではそれは170万ドルから360万ドルだったそうです。

また、環境中の汚染物質を避けるために住宅を建てる土地を買うのに使う費用が上昇するという行動から、460万ドル払っても汚染のない土地を選ぶそうです。

 

著者は合理的な判断をしている人々がなぜ非合理な行動をしてしまうのかについても考察しています。なぜ人に贈り物をするのか。なぜ神を信じるのか。なぜ無料の音楽配信を行うのか。値段と言うものはモノを得るために代金として支払うだけでなく、内在価値やコストや犠牲でもあるからだということです。

 

すべてのものに値段をつけて判断するというのは冷酷なようですが、判断基準としては明確であり公平なのでしょう。まあ少々アメリカ人としての価値観に引きずられたように見えるところもありましたが。