爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「殷 中国史最古の王朝」落合淳思著

著者は立命館白川静記念東洋文字文化研究所の研究員ということで、本書も甲骨文字の解明から見た中国の最古の王朝「殷」の歴史の真実を明らかにするという立場のものです。

殷王朝の頃、王朝中心部の王周辺で行われた占いの直接の記録である甲骨に書かれた文字の記録は間違いなく第1級の歴史資料であり、最も間違いのない内容であるはずなのですが、伝統的な歴史学はそれよりはるかに新しい時代に書かれた史記などの歴史書の内容に支配されてきました。

現在でも特に中国国内ではそのような史書歴史学に囚われた学者が多く、なかなか真実が伝わらないということも多いようです。

著者はそれに対して何とか甲骨から解明される真実の殷の歴史の姿を伝えたいという姿勢で本を書かれています。

 

ただし、第1級の同時代資料といっても甲骨には極めて限られた内容しか書かれていないという問題点はあります。王の行動を占うということに絞られた内容となっているためにそれに扱われないものは残されていません。したがって都から離れた地方のこととか、王朝以外の庶民のことなどは全く分からないようです。

 

殷王朝に先立つ王朝と言えるものは確かに存在したようで、二里頭文化と言われるものは王朝と言われるにふさわしい規模と内容を持っていたようです。しかし、それが史書などでも有名な「夏王朝」であるかというと、その内容と考古学的な発掘から推測させるものとはまったく異なっており、どうやら二里頭文化と伝説の夏王朝とは関係が無く、後世に作られた話のようです。

 

その後の王朝が殷王朝であり、これは甲骨文字の資料が大量に得られることで歴史学的な考察が可能になった初めての王朝でもあります。

殷代の前期は現在の河南省鄭州市付近の二里岡に都が置かれました。なお、二里岡を「商」とも呼んだために殷王朝を「商王朝」と呼ぶこともありますが、「商」とは厳密にはこの都の殷代後期においての名称であるために前期からすべての殷王朝を商王朝と呼ぶことは避けたというのが著者の見解です。

また数回に及ぶ遷都の経過や王の系譜など、後世の史書と甲骨資料とが符号することが多いのですが、詳しく見ると食い違いもあり後世の創造も随所に含まれているようで注意をしなければならないところです。

 

殷王朝では奴隷を祭祀の際に殺害して生贄とする風習があったということは甲骨資料からも十分に読み取れます。これらのことから殷は奴隷制社会であったという見解も出たのですが、奴隷が生産を行うという意味での奴隷制社会化と言うとそれとは異なるようで、生産は奴隷ではない庶民が行い、戦争捕虜を祭祀の生贄のために家庭内奴隷として使っていた程度で、奴隷制社会とは言えないものだということです。

そのため、後期には戦争捕虜を得にくくなり祭祀もやりづらくなったようです。

 

殷の衰退から滅亡については次代の周王朝が様々な理由をあげ王朝交代を正当化するということが行われたために、後代の史書はそれに影響されてしまいました。しかし紂王の暴虐などと言う証拠はほとんど見られず、紂王はかえって軍を引き締めるという政治を行ったようです。しかし、諸民族の反乱というものは次々と起こりその討伐でますます国力を失っていったようです。

そして殷から離反していった国々を吸収して周が力をつけ結局は交代してしまいました。それはクーデターと言うべきものですが、それに正当性を付けるためにいろいろと殷の暴虐というものを作り出したというのが実像のようです。

しかし甲骨資料というものはそれを用いた占いが殷の衰退とともに減少してしまい、それで史実を見ることは不可能になっていきます。

 

周は殷の実情に学び真似るべきは真似、変えるべきは変えていったようです。封建制度を取ることで安定した貴族制の社会に移行しました。それがさらに変わるのは秦帝国が成立するはるか後のことでした。

 

殷の時代ははるか昔の靄の中に垣間見えるようなものですが、甲骨資料と言うものの発見のおかげで少しずつ見えているのかもしれません。