爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

脱石油をしなければならない理由

脱原発という声は政財界では消えているものの、一般国民の間では決して低くなることは無く、今でこそまとまったものとなることはないもののいずれ時が来れば形になって現れるものと思います。
その理由は単純なものです。「事故が起きれば怖ろしいことになるから」というだけで十分でしょう。
いくら政府や電力会社が、事故の可能性は低いと言って運転再開を狙っていても、可能性は0ではない以上それを拒否するというのは当然の話です。

しかし、それ以上に急ぐべきことは「脱石油」なのです。
これにも異論が多いのは間違いありませんが、危険性という意味では原発と同等以上に強いものがあります。
実際に、すでに石油を争って多くの人が死ぬような戦争がいくつも起こっています。湾岸戦争イラク戦争はアメリカがなんと自称しようが、石油をめぐる戦争であったことは間違いありません。太平洋戦争も日本に対する石油禁輸措置が一つの引き金となって起きました。

今後はさらにそのような争いの起きる可能性が強くなるでしょう。
その理由は「石油が化石燃料であるから」ということです。
つまり、以前の時代の遺産であるので、存在量が限られているからです。この点で他の地下資源とは異なります。
オイルピーク説というものがあり、すでに人類は石油資源の半分以上を使い果たしてしまい後は徐々に供給が減っていくというものですが、これには反対論の方が力が強く、特に日本ではほとんど意識されることもありません。
しかし、実際はどうなのかを注意深く見ていけばその真実も見抜けるでしょう。

とは言っても、「まだ半分は残っている」のです。なぜ石油依存から抜け出さなければならないのでしょうか。
一つには、石油供給が漸減していく過程では世界的な混乱が避けられないからです。端的に言えば価格が乱高下し、いずれは暴騰していくことが避けられないからです。
20年以上前には1バレルあたり10ドル台という価格だった原油が高騰を始め、一時は100ドル以上にまで上がりました。いろいろな施策や思惑で若干下がってはいますが、いずれはまた上がりだすでしょう。
これでは産業が動かないということで、省エネルギーという活動はどこでも行われていますが、もはや産業によっては今後も成り立たなくなるものも出てくるでしょう。
今こそ石油とは縁を切るという決断が必要となります。

さらに、石油の使用権は我々世代だけのものではないということが言えます。
減ったといってもまだ半分も残っているなら、どんどん使っていってそのうちに新エネルギーを開発すれば良いというのが、現在の主流の考え方でしょう。
しかし、それで良いのでしょうか。数億年かかって生成された石油というものをわずか100年ちょっと、我々の数世代だけで使い果たすことが公正でしょうか。
私はそうは思いません。我々の子孫の方がもっと良い使い方をできるかも知れません。その可能性を現世代の勝手な都合で無くして良いのでしょうか。

次に、「石油の使用は間違った経済成長を起こす」という理由があります。
アベノミクスのマヤカシ経済成長のウソを問う選挙が今行われていますが、実はこれまでの特に戦後の経済成長はあくまでも石油に寄りかかり過ぎた「ニセの経済成長」であったかもしれません。
「石油が無かったらどうなっていたか」を想像するだけで、それは明らかになります。
しかし、そのニセの経済成長に慣れすぎた人間社会はすべての構造をその仕組みに作り変えてしまい、もはやそれ無しでは成り立たないようになってしまいました。
実はそれが現在の世界の混乱の元なのかもしれません。
それに早く気がつくことが生き残れるかどうかの瀬戸際なんですが、誰か気がついてくれるのでしょうか。