爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「ヒューマンエラーは裁けるか」シドニー・デッカー著 芳賀繁監訳

本書あとがきに書いてあったのは、ハドソン川にエンジン停止した飛行機を無事着水させたチェズレイ・サレンバーガーという機長がニューヨーク市から表彰された際に、併せて贈られたのが事故の際に携行していたニューヨークの図書館から借りた「Just Culture」、つまりこの本の原書であったという挿話がありました。そのような優れた機長でもヒューマンエラーというものと、それに対する責任追及という問題には無関心ではいられなかったということなんでしょうか。

人の生死に直接関わるような専門職には飛行機の機長や管制官のほかにも医師や看護師などの医療関係者、ソーシャルワーカーなどさまざまな職業があります。そのような職業における事故はしばしば起こりますが、そこでの担当者に対する裁判というものも起こされる場合が往々にしてあります。また責任を問われなかった場合でも被害者やマスコミなどから問題視され提訴される場合もあります。
このような事例は日本ばかりではなく海外でも多数発生しており、その問題点について細部にわたるまで述べられているのが本書です。

本書の冒頭にあげられているのは、乳児の治療の際に投与する薬の分量を間違えて死亡させてしまったとして提訴された看護師の例ですが、その陳述をみると周囲のいろいろな状況が重なり事故が起こったと言うことが分かります。しかし、最後に患者に直接投与したのは被告の看護師であるのは間違いなく、それをもって有罪とされてしまいました。被害者の遺族やマスコミも誰かの責任であるということを確定させることを求めており、その生贄にされたとも言えます。
危険な着陸をしようとしたとして提訴された飛行機の機長の場合も燃料が少なすぎたとか、管制が悪かったとかいった条件もあるものの誰かに責任を負わせると言う圧力がかかり有罪とされてしまいます。

このような裁判という圧力を感じると何か異状があってもそれを報告しないと言う当事者の態度につながってしまいます。本当の安全というものを確立するためにはあらゆる事故の芽を検討していくことが必要なのですが、それに対する当事者の協力が得られなくなってしまいます。

とはいっても、どんなミスでも責任を問うべきでないとは専門職の人々自身も考えておらず、また社会一般もそうは思っていません。技術的エラー(これをヒューマンエラーと呼んでいます)と規範的エラー(これは犯罪に当たります)とは区別すべきであり、技術的エラーには法律的責任を問うべきではなく、規範的エラーは適当な処罰をすることが当然だと言うことは認められています。しかし、この線引きをするということが一大事です。
簡単に分けられるようなものではなく、さらにその判定を誰ができるかということも問題になります。国によって差はありますが、検察官がこの役を勤めると言うことが多いようですが、それに必要な専門家の助言と言うものが効果的に得られるとは限りません。自分が裁かれると言う可能性が出てくると専門家も口を閉ざしてしまいます。

最初の例の看護師や飛行機機長のように、他のシステム全体に問題があったとしても社会的な要請で誰か一人を生贄にしたてて一件落着としてしまう例が極めて多いのですが、それではその後も類似の事故は絶えないでしょう。このような難しい問題を抱えたこれらの状況であるということの認識をまず広げていくということが大切なのでしょう。