爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「民族とは何か」関曠野著

なかなか面白い思想家として関さんの名前を聞きましたので図書館で探してみたらこの本がありました。講談社現代新書ですので、一般向けのはずですがなかなか難しい内容になっています。もしかしたら読みが浅く間違った理解をしてしまったかもしれませんが、とりあえずは書評だけ。

英語でNation という言葉は「民族」であるとともに、「国家」という意味も持ちます。これはどうやら民族国家というものの発祥であるイギリスの事情が絡んでいそうです。
民族というものは実質的には20世紀になってから一般的になったそうです。それ以前は世界は「帝国」と「植民地」からなっていました。20世紀初頭の第1次世界大戦はヨーロッパの帝国であったオーストリアの皇太子をセルビア民族主義者が暗殺することで始まりました。
そしてそれまでの帝国を一掃するためにアメリカのウイルソン大統領が民族自決という原則を主張しました。そのため、植民地などでくすぶっていた民族独立の気運に火をつけ、アメリカの覇権確立の動きとも同調して全世界で植民地が独立することになったそうです。

民族主義者という人々はどこの国でも「民族」とは自明のことであるとして定義をしていないようです。民族とは「言語・歴史・文化を共有する人間集団である」という認識では一致します。そして、一定の領土がありその中ではある程度平等な構成員からなるということも共通するようです。この「平等」ということは構成員以外の人々にとっては差別・迫害・攻撃のもとにもなるそうです。

これまでも民族に関して考察した思想家は数多くいたのですが、そこに欠けていた認識はNationという言葉の歴史的な意味にあるそうです。Nationは中世ラテン語のNatioから生じましたが、Natioという言葉は家族よりは大きいが氏族よりは小さい程度の集団を表し、とりわけ、異邦人の共同体を指していたそうです。しかし、イギリスで英国国教会を立ち上げることとなった折、ヘブライ語のgoiという言葉を指すものとしてNatioを使うようになったということです。goiは国家規模の人間集団を指すものです。つまり、宗教改革が民族というものを確立したとも言えるものです。

そのように、17世紀からのイギリスが民族というものをはっきりと確立させることになりました。そこでは支配者と被支配者が議会を通して同一の政治的な絆で結ばれるという構造がありました。
それと比べるとフランスは革命は起こしたもののその結果を全うすることはできず、さらにドイツではその機運もないまま帝国が存続しナチズムまで続いてしまいました。
アメリカは現在は多民族国家となっているようですが、成り立ちから民族国家でありそれを推進するという立場でした。激しく矛盾する国家なのでしょう。
第二次大戦後はアメリカの主導のもと世界に民族国家を広めることになりましたが、まったく矛盾するものを推し進めることで激しい対立になっています。かつての帝国はソ連も解体し中国を残すのみです。また民族独立という動きは留まることを知らず、さらに細かく分離独立を求めるということになってしまっています。

最後に日本についてですが、日本は民族国家としては成立しそこなったというのが著者の考えです。
日本の歴史の認識では大きく誤解されていることが多いのですが、江戸時代末期に欧米各国が東アジア進出を進めて、それに対し「植民地化を防がねばならない」という思いで開国・維新に向かったというのが一般的な理解ですが、著者によれば欧米が日本を植民地化しようとしたということはまったく証拠のないことで、そんなことを目指した国は無かったようです。
さらに、江戸幕府末期には公武合体の政体に移行しようとする動きが主流だったのですが、それに対しクーデター的に倒幕に方向を向けさせた集団(薩長・のちの明治政府)が無理やり幕府攻撃を進め、それを覆い隠す目的で「植民地化を防ぐには急がなければならない」と理由付けをしたからだとか。
公武合体の政体ができればそれは「民族国家」の成立に向かったかもしれないのですが、そのような明治政府の政策は「帝国化」を目指すもので、それまでの中国帝国(清)が没落したのでそれに代わってアジアの帝国となるという目標になりました。その中では国民も日本民族としてではなく、日本帝国の臣民(内部の植民地人)としてしか存在できなくなりました。その意味は帝国内では民族というものはなく、帝国の中心に近いところから日本人、朝鮮人、台湾人、中国人とだんだんと周辺に向かって広がるという考え方によるもので、民族主義がきちんと作用していれば朝鮮人や台湾人に日本文化の押し付けや創氏改名などというとんでもない愚策をするはずは無いということのようです。

それは第二次大戦後のGHQ支配でも変わらず、日本はいまだに民族というものになる段階に達していないということです。

国連という組織はその構成国自体がみな民族国家である必要があったそうですが、それが一応行き渡ったと思われた時にはそのそれぞれの国の中でさらに小さな集団による分離独立運動が乱立するということになってしまいました。まだ収まることはなくさらに混乱が続くのでしょう。