爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「原田正純の道 水俣病と闘い続けた医師の生涯」佐高信著

水俣病の原因究明の最初から関わり、患者の立場にたったことで有名でしたが、惜しくも一昨年亡くなられた原田正純さんの伝記を硬骨の評論家、佐高さんが書かれたものです。

私自身は1978年に大学を卒業し、就職して熊本県にはじめてやってきたのですが、それまでは水俣病というとすでに収束に向かっているという感覚でいたところ、現地に近い場所に来てみるととんでもないということに気付かされました。
なかなか全国版のニュースにはなりにくいのですが、熊本版では時々ニュースや特別番組など流れることがあり、まだまだ問題が多いものという思いで見ていましたが、その中で原田正純さんという名前はしばしば出てくるものでした。

原田さんは1934年の生まれで、戦争中はお母さんの実家の熊本に居たのですが空襲時にお母さんが焼夷弾の直撃を受けて亡くなってしまいます。女学校時代の英語の先生が戦争前に帰国を迫られ出発した際、見送りに出かけて英語でお別れをしたために、その後警察に付きまとわれても気にも留めなかったという気骨のある方だったそうで、原田さんの精神もその血筋かもしれません。

その後、父上の意向もあり医者への道を進み熊本大学で仕事を始められたのですが、ちょうどそのころ水俣病が大問題となり原因調査も進みました。1959年に熊本大学有機水銀原因説を出したのに対し、国や企業側はさまざまな反対意見を出し対抗したためになかなか決まらずにずるずると水銀排出が続き被害を拡大することになってしまいました。
1961年に原田さんは初めて現地を訪れ患者と出会うことになります。兄弟の患者を診るのですが兄は水俣病と診断されているが弟は違うと言われたと聞き、水俣病判断について大きな疑問を抱いて真剣な調査を始めます。
初期のころの水俣病の判定はむちゃくちゃだったようで、魚を食べていても他の原因があれば違うとか、乳児は魚を食べていないから違うとかいった判断がまかり通っていました。
原田さんは乳児の症状について共通性を見て取り、胎児性の水俣病というものの存在を確信しましたが、当時の常識では胎児への水銀移行ということが否定されていましたのでそれを打ち破るということが必要になりました。そこでどこの家庭でも保存してあった臍の緒を分析し水銀移行の証拠を掴み、胎児性水俣病というものを確定させています。

水俣病患者連盟の委員長を長く勤められた川本輝夫さんとは原田さんは1969年に出会っていますが、その言葉には始めから圧倒されたと話していたそうです。「死んだ人の診断はできないんですか。」と聞かれ、医者の常識とはかけ離れた素人の率直な意識というものを教えられたそうです。川本さんのお父さんは水俣病と診断される前に亡くなってしまいましたが、視野狭窄の記録がなかったために死後の診断でも認定できないということでした。
そこで、原田さんが「骨髄でも分析すれば」と答えたところ川本さんはすぐに墓に骨を掘りに行ったそうです。
他にも原田さんに素人だからこその素朴な疑問を次々とぶつけ、専門家が意識の中から外してしまっていることを思い出させてくれたということです。

水俣病では圧倒的に力の強い企業に国も加担して患者を押さえつけようとしていました。原田さんは「加害者側と被害者側に大きな力の差があるときに、弱い側に立つのが中立である」といって生涯患者の側に立ってきたと言えます。
著者の佐高さんは水俣病に関して国や企業に加担して発言した医師や科学者などを告発する本も書いているそうですが、その出版に際し資料を原田さんにお願いしたところ、すぐに送ってくれたそうです。患者に対しては優しい医師であったのですが、そのような人々には非常に厳しい態度であったようです。

現在でも水俣病は患者の認定など大きな問題が残ったままです。これまでの判定基準というのは4つの症状が揃っていることというのが条件になっていました。それは・視野狭窄聴覚障害・知覚障害・運動失調で、そのうちどれが欠けていても認定されていません。これについても原田さんは嘆いていました。

医者になりたての頃から一生水俣病に対して闘い続けた生涯だったということです。患者の人々もそれだけ長く苦しんできているわけです。それがまだ終わっていないだけでなく、同じような事件がまたどこかで起こっているということもあるのでしょう。