爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「日常生活の法医学」寺沢浩一著

北海道大学教授で法医学が専門の寺沢さんが一般向けに法医学というものの解説を書いたものです。

法医学というと、解剖に当たる人材難のために本来ならば解剖すべき事案であってもなかなかできないと言う話は聞いたことがありました。寺沢さんの本書でもその実態が詳しく語られています。

人が死んだ時に病院での病死であれば担当医の死亡診断書があれば終わりですが、なんらかの異状があると捜査の対象となる場合があります。
解剖を実施するということになると、法医解剖と呼ばれる処置になり、その中でも大学の法医学者が行うのが司法解剖監察医と呼ばれる医者が行うのが行政解剖(承諾解剖)となります。
死因について事件要素があれば司法解剖を行わなければなりません。その要素が無い場合は行政解剖ですが、それでもその実施中に事件が見つかり司法解剖に移行することもあるそうです。

法医解剖は大学の法医学の教授・助教授(現在は准教授)のみが行えるということで、著者の所属する北海道大学は北海道の中に3つだけある法医学を持つ大学だそうです。したがって、最大で6名が居るだけだそうです。北大以外には旭川医大、札幌医大なのですが、札幌医大で教授退任後に後任者が決まらないという事態が勃発し、それが収まるまでの間は北大と旭川医大だけで法医解剖を実施しなければならず、大変だったそうです。
また、行政解剖監察医でも実施できますが、監察医制度を持っているのは東京など大都会だけで、北海道にはありません。そこで必要な場合は大学に要請が来るそうです。その場合は教授助教授以外にも資格を持った医師であればできるそうですが、それにも厚生省の認定する死体解剖資格が必要で、それには2年以上の経験がいるとか。

本書では死因別に詳細に事例が書いてあり、気の弱い人は読みにくいかもしれません。幼児の溺死について、溺死かと思ってみていたら1時間ほどして蘇生するということがあったそうです。これは胎児のころの糖代謝経路というものがまだ幼児にも残っており、水中という低温環境では酸素供給が無くても脳へエネルギー供給がされるためだそうです。これが幼児の脳死判定を慎重にしなければならない理由の一つだとか。

乳幼児が突然死亡してしまう、SIDS乳幼児突然死症候群)というのもかなりの頻度で発生しますが、窒息による事故死も起こりえる状況であるので判別が難しいそうです。特に母親は動転してしまいますが、場合によっては事件性がある場合もあり慎重な判定が必要とされます。

交通事故による死亡も異状死の一つですが、多数にのぼるためにすべてを解剖するわけにもいかないようです。しかし、時々起こっているように急病で病死してから事故になるという例もあり、単純に決め付けられないようです。

全死亡数中の解剖実施率は日本では諸外国と比べ非常に低い4%程度ということです。高いところでは20%以上もある国もあり、「科学技術文化立国」などと称している日本という国が滑稽に思えるという著者の感想ですが、まさにその通りでしょう。異状死体のほとんどを解剖もしないまま(しかも火葬で)葬ってしまうのですから。

しかし、本書中に慶応大学の柳田氏の言葉が引用されています。「不幸にして亡くなった事実はやむを得ないが、それに対する正当な保障が遺族になされるためにも、また逆に権利の無い人が不当な利益を得ることのないためにも、そして被疑者とされている人の人権を守るためにも、死因の種類を正しく把握することが大切である」これを目指して法医学者は日夜仕事をしているそうです。

このように医者としては非常に毛色の違う法医学ですが、著者がそれを選んだのは北大の先々代の法医学教授の錫谷徹さんの影響だったそうです。その先生の人格にほれてその道を選んだとか。さぞかし立派な方だったのだろうと思います。