爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「伊能忠敬の地図を読む」渡辺一郎・鈴木純子著

著者の渡辺さんは電話関係の職に付きながら伊能忠敬に関する研究を続けて、自ら「伊能忠敬研究会」を立ち上げ代表理事、名誉代表を勤められているという方です。

伊能忠敬の地図といえば詳細で正確なものを江戸時代に作成したということは誰でも知っていて、その地図も目にしたことはあるかと思いますが、それ以上のことはあまり知られていないかも知れません。
伊能忠敬は1745年上総の国に名主の子どもとして生まれましたがその後佐原の伊能家に婿として迎えられ、酒造業や運送業といった家業を成功させ、49歳で息子に家督を譲り隠居しますが、江戸に出て幕府天文方の高橋至時に入門し、天文・暦学を学びます。暦学上の必要から地球の大きさを測るということに興味を移しやがて実地の測量を行うようになります。
さらに大きな範囲の測量をしてみたいという熱意から、蝦夷地まで行くことを願い、別海までの測量旅行を行いました。この時はすべて歩測で測りましたが、天文的な測量を目的としたものではあったもののそのルートの重要地点のみをつないだ地図を作成したところその正確性が師匠の高橋や幕府の要人を感心させ、本格的に全国の測量をさせるということになったようです。

歩幅のみで距離を測ったのは最初だけで、その後は縄を用いて実測しました。海岸では舟を使って縄を張ったということもあったということです。
東日本から始まりやがて西日本まで測量の旅行を催しますが、薩摩藩ではなかなかすんなりとは行かず、幕府からの強い要請で屋久島・種子島までようやく渡海し、地図を作ったときには薩摩の殿様からも慰労品を贈られたとか。

最終版の伊能図は1821年に完成し、幕府に提出されました。正式名称を大日本沿海與地全図と呼び、大図214枚、中図8枚、小図3枚という膨大なものだったそうです。なお、大図というのは小縮尺の範囲の狭いもので、小図とは日本全図のようなものを指します。
しかし、明治維新後幕府からそのまま明治政府に引き継がれた伊能図原本は明治6年の火事で焼失してしまいます。また、伊能家に残された副本もその後研究のために東京大学に借り出された時に関東大震災で焼失してしまいました。
正副の原本は無くなりましたが、幕府に提出した直後から複写が頻繁に行われたため、一応すべての写本が残されているそうです。国内だけでなくフランスやアメリカにも渡っているものがありました。また各地で発見されるものもあるようです。

幕末にイギリスの測量部隊が来航し、日本沿岸の測量をすることを求めたので伊能の地図を見せたところその出来に感服して何もせずに帰ったという話は有名ですが、これは少し誇張があり実はその写本を渡したところ測量の手間をかける必要が無くなったので喜んで持って帰ったということのようです。

きれいな図版の地図が掲載され、眺めていても楽しい本でした。