爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「大人のいない国」鷲田清一、内田樹著

若さだけが価値があるかのような風潮で、「成熟」ということが顧みられなくなったような現代ですが、哲学者で大阪大学総長の鷲田さんと、現代思想学者で神戸女学院大学教授の内田さんが成熟社会の中での未熟者ばかりという状況について対談を随想を書いています。

本書は2008年の発行ですが、その当時はマンション建設の耐震偽装事件や、食品の偽装事件が頻発していました。著者はそれらの事件を起こした者も、それを糾弾している人々もどちらもとても「幼稚」に見えると感じています。
政治家も幼稚、大会社の経営者も幼稚に感じます。そういった人々でも一応政府や大企業を運営していると言う現代日本はどういうものなのか、哲学家として考察を加えています。

格差論や世代論を議論する評論家や学者を見ても、皆30代、40代のいい大人のはずなのに、こんな社会にしたのは誰だと言う論調で責任を他に転嫁するばかりで自らが社会を支える大人であると言う自覚が全く見えません。
それが極端に出る人々は「クレーマー」となっています。
著者は大学で身に付けるべき教養というものは、「本物と偽物を見分ける力をつけること」と書いています。つい最近も大学での教養についての他書も読みましたので興味深いところです。
「知識と教養とは違う」とも語っています。図書館にある本は知識というものですが、教養とはいわば図書館全体の構成を知ることだと言うことです。

大人論とどこまで関係するかは分かりませんが、最近目立つ「愛国者」についても書かれています。「愛国者」というのは必ず自称するというのもおかしなところですが、その論理と言うものは矛盾だらけです。
かならず、「憂国の言」というものを語りますが、現代の祖国の惨状というものを必ず語るものの、「栄光ある祖国」というものがどこで存在していたかと言うことを明確にすることができないようです。
また、その人々は反対者を「非国民」と称して非難することが普通ですが、そういった論法で反対者を切り捨てていけば最後は本人ひとりだけが「国民」であると言う事態になってしまうと言うことも理解できていないようです。すなわち、そのような「愛国者」は実際は「愛己者」であるに過ぎないということです。
現代社会はどのようにしても均質社会にはなりえません。国を国として成り立たせ、できるだけ皆が快適に暮らせるようにするためには、「不快な隣人」を受け入れていくしかないと言う主張です。

言論と言うものが出版や講演という形でなされていた時はまだ実名で責任を持つと言うことが成り立っていましたが、ネットで匿名ということが普通になってからは言論などと言うものではなくなってしまいました。
実名で意見を発表すると言うことは危険も伴いますが同時にそれを発表したと言う「利得」も得ることになります。特許に当たるような技術を匿名で発表することは有得ないと同様、社会を変えるような意見があれば実名で発表しその権利を確保すべきものです。
このような知的権利と言うべき意見の確保を求めないような、ネットでの匿名の意見発表というのは、実は「呪い」なのではないかというのが著者の見解です。古代では同様に意見者の主体を伴わない言葉で「祝」というものもありました。しかし、現代では「祝」はほとんどなく、ほぼ全部が「呪」であるようです。
「呪」で人が本当に死ぬかどうか、実はネットでの悪口が原因で自殺する人が出ていますので、本当に「呪い殺し」ているのかもしれません。

成熟した大人の意見はそれぞれが個別のもので、全体としてみると無秩序で矛盾に満ちたもののように見えます。しかし、一つの意見だけで成り立つのは独裁国家だけであり、別々の意見を相互に尊重しあいながら共存していくのが成熟社会であると言うことは間違いのないものでしょう。