爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「日本人は知らない”地震予知”の正体」ロバート・ゲラー著

著者は地球物理学者ですが、アメリカの大学で日本人の地震学者と出会い、その縁で来日して東京大学で研究を続け東大初の任期の無い教授(正式の教授と言う意味)になったという人です。
最近は地震予知批判でテレビにもよく出演しているとか。私は見たことがありませんが。

地震に関係した学問には数々の分野があり、著者の専門の内部構造や地震波動論というのもその一分野です。しかし、日本の地震学会では国策としての地震対策というところから地震予知というものが格別に重視されるという状況にあり、その他の分野にはほとんど研究費も回ってこない状況のようです。その恨みで地震予知批判を著者が強めていると言うわけではないでしょうが、まあその辺りのいきさつなどを整然と書かれています。

東日本大震災福島第一原発事故の時には「想定外」という言葉が飛び交い、流行語のようになっていました。しかし、著者の主張によれば原発建設当時の学説では確かに分かっていなかったという状況もあったようですが、その後の学説では巨大地震のあった証拠は数多く報告されていて、たとえ原発が運転されていたとしても巨大地震の可能性を考慮しないというのは怠慢だったということです。
現在の学説では、マグニチュード9クラスの地震というものはどこでも起き得るとも考えられているとか。そうなればそもそも原発の建設はどこでも無理と言うことでしょう。

地震予知という計画は1962年に始まったそうです。最初は小規模なものでしたが新潟地震が発生という状況もあり、徐々に多額の予算が付くようになりました。しかしその学問的根拠は実は極めて薄弱なものであり、それが可能かどうかと言うこと自体もはっきりしないまま、何とかしなければと言う政策的要請だけで進んできたようなものだったそうです。
それに地震学者たちがうまく入り込み、研究費確保という思惑からあたかも予知できるかのような幻想を抱かせながら金を引き出したようなものだそうです。
その後、東海地震が近いかのようなあやふやな雰囲気が強調され、さらに巨額の研究費が投入されるようになっていきます。
しかし、別の場所での地震はいくつも起こっているものの東海地震は起こりません。別の地震では起こった後になっていろいろなデータをひねり回し、「これが予兆だったかも」というものをいくつも後出しする「地震予知」ならぬ「地震後知」が発表され、それをマスコミが大きく報道することで本当に地震予知ができるかのような幻想を抱かせるという状況が続いてきました。

しかし、阪神淡路大震災ではさすがに何の予知もできなかったことで「地震予知推進本部」は名前を「地震調査研究推進本部」に変えざるを得なくなります。しかし、その実態はまったく変わっておらず研究費を引き込むだけのもののようです。さらに東日本大震災もなんの前兆も発見できないまま起きてしまいました。これまでに3000億円以上の国費を予知だけに投入しているそうですが、なんの成果も上げられていません。

温暖化研究でも環境ホルモンでも、国の施策として研究費投入と言うことになるとその周辺の研究者の群がるような利権争いの場となるのは同様のようです。政治家が馬鹿なのか、国民が馬鹿なのか。両方でしょう。