爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「消費者の歴史」田村正紀著

神戸大学名誉教授でマーケティング・流通が専門と言う田村さんが江戸時代から現代までの「消費」と言うものの歴史を書いたものですが、当然のことながら消費者とはいってもその経済的な性質と言うものは社会制度や家族制度まで考慮しなければ正確な理解は難しいところですので、かなりそういった背景の事実の記述と言うものも多くなったようです。
そのために、すべてを総括したまとめといったものは無く、あくまでも事実を受け止めるための資料と言った印象を受ける本でした。

自らは生産をせず、他人の作ったものを消費するだけの消費者と言うものは、特権階級であれば古代から居たのでしょうが、その数が多くなったと言うのは江戸時代からのようです。武士階級は必ずしも全てが特権階級とも言えず、下級武士ではなかなか食べていくのも苦しい状況だったようですが、一方では商人の活動が活発化し裕福なものも出現してきました。しかし、日本においてはそのような新興富裕者をヨーロッパのように貴族階級に参入を許すと言うことはなく、あくまでも士農工商の最下層という扱いを正式には変えることはなかったために、富裕商人は奢侈物の消費だけに進んでいったと言うことがあったようです。それに引きずられて町人も消費活動を少しずつ増やしていきました。とはいえ、人口のほとんどを占めるのは農民でありそこには消費と言えるような経済活動はほとんど見られなかったようです。

明治維新となりそれまでの武士には二束三文の手切れ金だけで放り出したような形で社会の変更を成し遂げてしまいましたが、産業革命を無理やり進める形で徐々に都市部への人口移動が起こってくると消費と言うものも動き出してきたようです。また西洋からの輸入品に高級感を見出すということから奢侈品の需要と言うものも生まれ、現在にもつながる銀座の高級店というものも出現してきました。
しかし、一部の官僚などを除けばまだ労働者層は貧困を極めほとんど消費活動というものは低位置に留まっていたようです。
また、農業においては自作農の貧困化から小作人への転落ということが多数起こり、その結果大地主層というものが出現してしまいました。その土地以外に住む不在地主という人々もこの頃に生まれたものだそうです。

明治中期の経済活動として、あまり知らなかったことですが、勘工場(かんこうば)というものもできてきたと言うことです。そこでは本物の舶来品を売るような銀座の高級品店とは異なり、庶民にも手の届くような品物(模造品などの安物)を売るような場所ではあったものの、手軽に洋風の雰囲気に触れられる場であったようです。
その後、百貨店という業態が生まれ大きく発展していくことになります。その時期にはまだ大都市に限られた百貨店出店ですが、それ以外の土地にも外商部の営業と言うものは入っていき、それまでの品物とは異なるような洋品などが浸透していくことになりました。

昭和に入ってからの戦争期には消費というものも厳しく制限するようなことになりましたが、それがそれまでの消費形態、ひいては社会の形態というものを大きく変革させるようなことになってしまいます。戦争中から戦後まで統制経済で配給と言うものはあるものの、それ以外の闇取引も横行し、大きなものになります。
また、家族の統制というものも崩れて行き、個人的自由が拡大していったというのも戦争ととりわけその後の敗戦という過程からできてきたとも言えます。家長の権威というものが社会の権威までつながっていた以上、敗戦で権威が下落するとそこまで引きずられて下落してしまったのでしょう。

もちろん、いくら個人的自由が拡大しても経済発展がなければ個人的消費活動も拡大できるわけではないのですが、朝鮮戦争以降の情勢も日本の経済復興に寄与したために高度経済成長が可能となりました。そこでは家族内での個人の自由度アップと壮年層の自信喪失ということも重なり、若者の自由拡大、消費拡大ということにもつながり、その結果現在までつながるような消費社会になってきたということのようです。

最初にも触れたように、だからどうだと言う著者のまとめもなく、自分で考える資料とせよといった本書なので、何か一言感想を述べなければ終わりませんが、消費社会の真っ只中で産まれ育ち、老いてきた自分なので、消費から逃れることはできないものの、やはり何か間違っているのかもと思わせられます。今のように、「消費刺激して経済復興」とばかり言われているとますますそういった思いを強くします。いつまでもこんなことが続くわけないよ。