爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「それでも、日本人は”戦争”を選んだ」加藤陽子著

この本は東京大学の加藤教授が2007年の冬休みに神奈川県の栄光学園の中高生の歴史研究部員を対象として、1930年代を中心として日本がどのように戦争に向かって行ったかの経緯を講義した記録をまとめたものです。
実際に講義録をまとめた形になっており、生徒の側からの発言も随所に挟み込まれているようです。

受験体制の関係だけでなく、種々の要因から近代史の教育というものは非常におろそかにされていますので、明治維新まではまだ詳しく扱われるものの、とくに日清戦争以降どのような事情で日中戦争から第2次世界大戦に向かっていったのかということはあまり知られているとは言えない状況だと思いますので、このように詳しく扱われているものは貴重だと思います。

最初にあげられているのは日本に限ったわけではなく近代になり国民国家という形を取った時に戦争をするには国民を納得させるスローガンが必要ということです。第1次大戦にアメリカが参戦する時には「戦争をなくすための戦争」と言われたそうですし、対するドイツ側では「民族存立を防衛するため」と言われたということです。
また戦争の最終目的も前時代のように征服して合併するなどという荒っぽいことはできなくなり、戦勝した場合の目的は「相手国の憲法を変える」ということだと整理できるそうです。それがまさに第二次大戦後の敗戦国の運命だったわけです。

さらに歴史を学び応用するということについて、アメリカ人の歴史学者アーネスト・メイの言葉から引用しているのは、①外交政策の形成者は歴史が教えたものと自ら信じているものの影響を受ける。②政策形成者は通常、歴史を誤用する。③政策形成者はそのつもりになれば歴史を選択して用いることができる。だそうです。言いえて妙でしょう。

日清戦争は実はイギリスとロシアに変わって日本と清が戦った代理戦争だったようですが、日露戦争も実はそうだったということで、ロシアの裏にはドイツ・フランス、日本にはイギリス・アメリカがついていました。中国をめぐる門戸開放ということを通じてそのような構図ができていたもので、決して日本だけの思惑で戦争に至ったものではないということです。
日露戦争には勝ったものの、まったく賠償金を取れないということで国内が騒然としました。それは日露戦争の戦費を賄うためにものすごい増税をしたからだそうです。当時はまだ地租の割合がもっとも多かったのですが、それを倍以上に上げ、戦争が終わるまでの時限立法としたのに賠償金が全く取れないためにその増税を続けざるを得なくなったということです。これは社会の混乱が起こるのも当然でしょう。
その頃は選挙もまだ普通選挙ではなく国税納付金額によって制限されていたのですが、増税されたために「選挙権者が倍増した」という聞いてみれば納得なんですが、うそのような話で選挙人口が増え、その結果議員の質も変わってきたということは初めて知りました。その結果より低所得層の利益に通じるような政策が求められることになります。

その後第1次世界大戦に時代は進んでいくのですが、これは最初はヨーロッパの戦争でしたが、ドイツのアジア権益を求めて日本も参戦していくことになります。しかし、そうさせたくなかったのはアメリカとイギリスで日本が勢力を伸ばすのは避けたいと考えていたようでした。そこで色々と厳しい条件をつけて参戦を許したような形になりました。
それが戦争後のベルサイユ講和条約での交渉難航にもつながりました。松岡洋右近衛文麿吉田茂やイギリスからケインズなどその後の各界で活躍する人々が様々な立場でこの会議に出席していたそうです。
日本は中国に対する21か条要求や朝鮮での3.1運動などのことで批判を受け交渉もやりにくくなったようです。中国の顧維欽という人など、初めて名前を聞きましたが非常に優れた論理で主張した人もいたそうです。

その後、満州事変から泥沼とも言える戦争に突入していくのですが、当時の人々はほとんどそれに対する批判はなく支持する人が多かったということです。そもそもそれを戦争と思っていないというのが特徴的なことであり、これは現在のアメリカの状況とも似通っているようです。つまり、相手は盗賊のようなもので、掃討しているだけで交戦しているとは考えていなかったわけです。
ソ連の圧力も強いために、日本は満蒙は日本の生命線と言い出すことになります。それを守るということだけに意識が集中し、他のことはまともに考えられなくなってしまったのでしょうか。
満州国を建国させ、影響力を強めながらも日本政権内では国際連盟脱退というところまでは考えていなかったようですが、陸軍がさほど重要なこととは認識していなかった疑いのあるような、中国熱河省への軍隊侵攻を起こしてしまいました。しかしこれは陸軍だけの暴走ではなく天皇裁可も受けた政権認定の政策だったということで、つまり誰もその重要性に気付いていなかったようだということです。これは実は完全な国際規約の無視であり、これですべての連盟国を敵に回してしまいました。

なお、その当時中国の駐米大使となった胡適という人も非常に頭の良い人でいろいろな文書が残っていますが、日本と戦争になったら3年間は負け続け海岸線は全部日本に明け渡し内陸に移って交戦し続けるという政策を主張したようです。ここまでやって初めてアメリカやイギリスが本気になって参戦するだろうという見通しで、まさに実際の歴史はその通りに動きました。さすが中国には優れた人も居たということでしょう。
汪兆銘は日本の傀儡政権を作ったということで批判されていますが、彼も「蒋介石は英米を選んだ。毛沢東ソ連を選んだ。自分が日本を選んだのと何の違いがあるのか」と言い切ったということで、それなりに立派なものです。

日本がアメリカなどとの全面戦争を選んだということについては、当然ながら批判が強いのですが、それに至る決定の過程ではそこまで不利ではなかったのかもしれません。日本は独ソ開戦の前に日ソ中立条約を結びますが、日独伊三国同盟ソ連が組めば決して連合国に引けは取らないと踏んでいたようです。しかし、その直後にヒトラーソ連侵攻を始めたことで思惑が完全に狂ってしまいました。その時点では空母航空機の戦力は日米はほとんど同程度だったのですが、その後アメリカは全力で生産を始め、終戦直前には日本の15倍にまで達してしまう。そのためにも開戦直後に全力でアメリカ海軍をたたいておくというプランだったようです。またその後の海上輸送力とその防衛力が無かった点についても各所に防衛航空機を配備し空から守るというプランもあったということです。すべてが勝手な一人読みでしたが、なにも考えなくということでもなかったようです。

日本の戦争犯罪に対して捕虜の問題もありますが、これも見ないふりはできないことです。捕虜の死亡率を見るとドイツでは1.2%に対し、日本の捕虜となったアメリカ兵の死亡率は37.3%に上ったそうです。ただし、これは捕虜の扱いだけが悪いというわけではなく、自国の兵隊や人民の扱いも劣悪であり、捕虜も同じだっただけだそうです。自国兵にも食糧を供給するという考えがほとんど乏しかった。捕虜まで回らないというのが実情です。情けない国と言わざるを得ないでしょう。

私も歴史はそこそこ詳しいと思っていましたが、このような現代史には知らないことがたくさんあるものと驚きました。
なお、文中に出てくる栄光学園の生徒さんたちの反応というのも的確で驚きました。歴史研究部の部員ということですが、さすがです。