爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

エネルギー文明論「石油の無くなる100年後の世界 (2)各論 交通・輸送部門」

(2)各論・交通、輸送部門
石油燃料を軍隊では使えたとしても、一般社会ではほとんど使用不可能になります。現在の石油の使用先で重要なのはなんといっても輸送部門でしょうが、それをどうするかということが大問題になります。
楽観的な人々は電気自動車に徐々に移行していきそのうちに完全に電気化できると考えているのでしょうが、本当にそれで大丈夫でしょうか。
これまでの自動車はほとんどが「鉄」だけで作ることができました。それ以外の原料はごく限られたものだけでした。しかし、電気自動車となると一台ごとに大きな蓄電池が必要となります。蓄電池は鉄だけで作ることはできず、何らかの金属(ニッケルとかマンガンとか)が必要です。現在のようにお遊びで数百台、数千台作るだけなら可能でしょうが、今の自動車数千万台がすべて電気自動車化するとなるとそれらの資源量も莫大なものです。しかも、それが日本だけでなく全世界も同様です。それだけの資源が供給できるのでしょうか。
また、現在は電気自動車などほとんどない状況で、充電ということも場所が少ないとか、時間がかかるといった問題程度のように見えていますが、これが数千万台となると大変なものです。それだけの電力が準備できるのでしょうか。それでなくても原発再稼動もできない、また火力発電の原料費も高騰という状況です。(もちろん石油がなくなったら発電原料費もさらに高騰するはずです)

つまり、現在のような自動車依存の輸送・物流体制というのは石油がない時代には不可能となる可能性が強いということです。
これは世界中を見回してコストの安いところで大量生産してそれを全世界に流通させると言う手段で成立している現代の「グローバル経済」を根底から覆しかねない事態につながるということです。
これは想像するのも難しいなどということもなく、例えば現状で世界の工場となっている中国の製品がどこに持っていってもその先で小規模に作っている地場の製品より安いから売れているわけですが、それが輸送費が高くなってしまえば元通りに地場産業が息を吹き返すということになるだけの話です。
また、人間の移動手段というのも全てが高価になるということになり、飛行機移動などは言うまでも無く、マイカー通勤というのも庶民には不可能になるかも知れません。すると安価な移動手段を前提に作られてきた現代社会の構造自体も成り立たなくなります。
アメリカは言うに及ばず、日本でも普通になってきた「郊外の広い一戸建てが並ぶ風景」は存在不可能になっていくということです。また昔のように鉄道の駅の周辺に狭い家が立ち並ぶ光景に戻ることになるでしょう。