爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「武士語でござる」八幡和郎著

通産省勤務などを経た後評論家などとして活躍されている八幡さんが江戸時代の武士の言葉について記した本です。
戦国時代までの京都中心の社会では京都中心の言葉が一応基準ではあったと考えられますが、各国それぞれの言葉だったと思います。
しかし、徳川家康が関東に領国を与えられその後豊臣氏を滅ぼし独自の幕府をそのまま江戸に置くことで、関東が中心となってきました。
また、参勤交代で大名を江戸に住まわせることとなり、その家来も含めて多くの武士が江戸にやってくることとなり、言葉も標準化する必要がでました。

徳川の家臣は多くが三河尾張の出身で、さらに武田家滅亡のあとその家来も多く抱えることとなったため、甲信出身者も入りそれらの言葉と関東の言葉が複雑に混ざり合って、江戸の庶民とも異なった武家の言葉というものが確立してきたそうです。
テレビなどでの時代劇で武士にしゃべらせている言葉というのは基本的にはそれほど間違いのない言葉のようです。まあ当然といえば当然で、戦前の映画などはまだ江戸の記憶も持っていた人達が見ていたはずなのでそれほどおかしな言葉はしゃべってはいなかったでしょう。

ただし、一点だけ、著者は殿様などが自称として「余」(よ)を使うのを、「あまる」という意味から家臣団の「余り」ではと書いていますが、自称の「余」と”あまり”の意味の「余」は漢字簡略化の際に同じになっただけで、”あまり”の意味ではなかったはずなので、その意味解釈は違うのではないかと思います。