別府大学教授で歴史学者の白峰さんが江戸時代の大名の転封の際の城の明け渡し、引継ぎの手続き、事例を残されている文書に従って紹介したものです。
引越しといっても大名家が改易(取り潰し)されて出て行く際などは場合によっては家臣が篭城などという事態も有り得るため、特に江戸時代の前期の改易が多発していた時期などでは引き取りには周辺の大名に軍勢を出させてからということがシステム化されていたようです。
寛永9年の熊本の加藤忠弘が改易され細川忠利が入城した際は、城の明け渡しにむけ正式な使節である上使の稲葉正勝などの他にも石川、内藤、水野といった譜代大名に軍勢を準備させるということがあったようです。
しかし、実際は改易に際しても反乱といったことが起こることはほとんどなかったようです。
その後は改易はぐっと減るのですが、譜代大名などの転勤にあたるような転封が数多く発生しています。その際の手続きというものもほぼ決まったものがあったようで、現在も残る各大名の記録などを比較してもほとんど同じ日程で行われていることが分かります。
それにしてもそのような転封の手続きに現れているのは、各大名の城というものは決して大名の所有物ではなく幕府のものであり、それを統治期間の間だけ大名に管理させているのだという幕府の姿勢をはっきりと示すというものです。
しかし、まだ近い時代のこととはいえ、どこの国でも色々な記録をしっかりと残しているものだと改めて日本人の記録好きには感心させられます。