爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

教育論「やっぱり能力をつける教育」

表題が同じようなものになってしまっているので、分かりにくい限りですが、徐々に整理していければと思います。

生まれながらの能力、学校以外で付いた能力、学校で教えられて付いた能力などいろいろあるでしょう。勉強以外では習い事やスポーツなどでも様々な(その主目的以外の)能力も付くでしょう。例えば少年野球のチームに入って練習していれば、野球も上手くなるでしょうが、なかなかレギュラーになれないでも頑張る精神力とか、応援だけでも張り切ることで周りの子供たちとのコミュニケーション力を高めるとか、いろいろな能力向上につながる場合もあるかもしれません。

そんな中で、学校教育で付く能力というと、どうしても学科それぞれの色々な知識というのが一番多いように見えます。この辺の事情が、「学校教育は実社会に役に立たない」とか、「入試の問題は細かい知識を求めるばかりで詰め込み教育になる」とかいった批判の元になるところでしょう。

これはどうしても大きな比重を占めるのでしょうね。いくら化学反応の考え方は理解しましたとか、歴史の法則はこうだということを覚えても、実際の反応の様子や歴史の事件を記憶していないことには何の役にも立ちません。また、記憶力の良い人はどうしても他の能力も高いことが多い(イコールではありません)ので、とりあえず記憶力の良い人を”できる人”としておいても大体間違うことは無いという事情がありそうです。
なによりも、入試や通常テストで記憶した知識を問うのは非常に簡単です。思考能力を問う試験なんていうのはどうやって作るか、相当大変でしょう。しかも一生懸命作ったとしても、あっというまに予備校のやり手講師の皆さんに手の内を丸裸にされてしまい、受験生に教え込まれてしまうでしょう。
そんなわけで、学校教育の関係者の間では”能力=知識量&記憶力”と近似的に定義されても仕方の無い状況なのではないかと思います。

学校教育にそれ以外の能力付与の機能が無いわけではないと思います。しかし、その辺は教師の人間性とか指導力とかそういったものに大きく左右されるように思います。(これまでのわずかな人間関係からの類推ですが)
あくまでもシステム化されたものにはなっていないように感じます。