爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

教育論「必要な能力が教育で身につくのか」

もちろん、一見すぐには社会に役立たないという人材もあると考えられます。科学全体が発展することが科学そのものの質を高めることでしょう。その意味で現在のように大学においても金儲けができる分野ばかり優先されるような状態ですが、そのうちに科学界全体が先細りになってしまうのは明らかです。すぐ金にはならず、また無駄に見えるような学問分野がいつか必要になるという例はいくらでもあります。しかしその点についてはここでは触れず、一応「社会に役立つ人材育成」が教育の最大の目標であると単純化してみます。

 そのように見た場合に現在の日本の学校教育がその目的を適えられる状態になっているかどうかが問題となります。それとまったく逆の状態というのは、(異論はあるでしょうが)一時の中国の王朝時代の官僚選抜のための科挙試験のように、経書の知識や詩文の作成だけに特化したというように、内容はともかく、とにかく正確に受験者の順位付けと選抜だけが行えるような試験体制です。
 知識の重箱の隅だけを問うような難問奇問という類の一昔以上前の入試問題がそのイメージでしょうか。

 それには教育指導要領の内容からぎりぎり離れるか離れないかという程度を追求するというイメージでもあります。

 現実の日本の教育現場というのは一口では言えない状況でしょうが、これも報道で知りえた内容だけの話で、詳しくは捉えていませんが、地方の小規模大学で独自の教育方針で特にコミュニケーション力や語学力、企画力などに力を入れて育成し、就職率が非常に高いという大学があるようです。してみると、一般の大学はこのようなことは全く実施されていないということになります。
 このような「社会に役立つ(一見そのように見える)人材育成」をどの学校でも実施すれば学生の能力も上がり、ひいては日本の社会全体の能力もアップするのでしょうか。
 多くのビジネスマンを生み出すような文系の教育機関についてはあまり詳しくはありません。ここも報道や書籍から得た知識になってしまいますが、どうも大抵の大学等はこのような人材育成としての機能も、それにふさわしい人材選抜の機能も発揮していないように感じます。
 また、理系の大学等はこれまでの自分の経歴から、若干の知見はありますが、どうもこういったところでは人材育成ではなく科学分野の研究の発展だけに興味が向いている研究者が多いようです。まあ言ってみれば学生実験や論文研究などの過程で各自勝手に能力アップしてよね、という程度の人材育成です。
 これも聞いた話ですが、海外の大学では単位取得も厳しくて卒業できない学生が多く、卒業できたということだけである程度の人材と評価できるそうです。そういった教育にあこがれて日本から挑戦する学生も居ます。そういった人は確かに仕事上も優秀でしょうが、そのような教育方法が良いのでしょうか、そもそもそのような状況に飛び込もうと考えるだけでもかなりの精神力・挑戦力が無ければ行けませんので、それ以前に優秀人材になっていたとも言えそうです。
 
 このような状況を考えてみると、一流大学卒業というのは必ずしも仕事が優秀と言えそうもないように思います。まあ全く関係が無いわけでもないでしょうが、せいぜい一流大学卒は三流大学卒業よりマシなのが多そうだ位のものかも知れません。
 企業の採用担当者も同程度の認識でしょう。かなり外れも見込んで有名大学から志望者を集めて採用するのでしょう。

 さて、それではどのような教育体制、受験選抜方法をやっていけば優れた人材が輩出するようになるのでしょうか。
 この問題に答えるのが誰かによってこの答えは違ってきます。まず、政府であれば”優れた人材”養成だけでなく”優れていない人材”をそこそこの職業に耐えられる程度には養成する義務があります。つまり、トップクラスから最低クラスまでの学生を割り振り全体としてレベルを上げなければいけません。それにはどのような人材が何人くらい必要かということを見極めていかなければいけませんが、非常にむずかしいのは間違いありません。現在の学生数を決めるには将来の産業や社会の構成を想定しなければなりません。医者や弁護士の数を(それも比較的短期の)見誤っている政府では期待できそうもありません。
 教育産業の担当者(学校経営者、予備校・塾経営者等)であればそのような将来性を考えながらも現在の生徒の要望を捉えていかなければ経営が成り立ちません。その意味ではこの人達にあまり理想論を考えさせることもできません。
 現在の教師の人達は現実の生徒の要望に応える以上のことは事実上できないでしょう。

 唯一、理想論を構成できるのは、「売れなくても構わない教育評論家」でしょうか。