爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「じゃっで方言なおもしとか」木部暢子著

著者の木部さんは、方言の研究を専門とされているのですが、北部九州の生まれ育ちで、鹿児島大学に職を得て赴任した時に初めて鹿児島方言に触れたそうです。

九州の外の人にはあまり知られていないことかもしれませんが、九州の他地域の人から見ても鹿児島方言は独特のもので、(熊本から見ても)昔ながらの話者が話せばほとんど分かりません。

そのような中で鹿児島各地の方言を調査し、その構造や変化を追っていくことで、著者の言語研究も充実していったようです。

 

この本では、鹿児島方言の特徴をいくつか取り上げて、それを通して方言というものの性質も大きく捉えられるようになっています。

また、現代で方言というものが消滅しようとしている点についても、語られています。

なお、本書表題の「じゃっで方言なおもしとか」とは「だから方言はおもしろい」という意味です。

 

 鹿児島方言は、独特のアクセントが特徴ですが、その一つに「質問文の文末が下がる」ということがあります。

著者も最初に鹿児島にやってきた時に非常に戸惑ったのですが、若い人など語彙はかなり標準語に近いものになっていても、イントネーションだけは昔通りということがあり、相手の意図を完全に取り違えるということがあったそうです。

 

東京方言など、他の地域の言葉では、質問文は語尾を上げるということが普通です。

語尾が上がれば質問、下がれば詰問、そして、語尾に「か」という助詞は普通は付けないというものです。

しかし、鹿児島方言では語尾は下がる。そして文末に必ず「か」のような助詞が必要というものです。

ただし、よく調べてみると鹿児島に限ったことではなく、北九州方言や松本・広島方言でもこのような場合があるということで、かつては広く使われていたのかもしれません。

 

否定形で質問された場合、「はい」と「いいえ」の使い方が、日本語と英語とは異なるということは、英語の授業で繰り返し注意されることだと思います。

「郵便屋さんはまだ来ていませんか?」という質問文に対し、

「はい、来ていません」と答えるのが日本語。

「いいえ、来ていません」と(英語で)答えるのが英語ということです。

 

しかし、鹿児島方言ではこのような場合でも「いいえ、来ていません」と答えるのだそうです。

これは、東北地方にもあるようで、ケセン語岩手県南部で使われている)も同様だそうです。

ケセン語を研究している、山浦さんという方によれば、このようなハイイイエが反転する「ウンツェハァ」率は当初は老人に多く若者には少なかったものの、最近ではまた上昇しているとか。

方言というものに対する姿勢が若干変わってきているようです。

 

ただし、このような方言特有の「ハイイイエ」の反転というものが、なんと運転免許などの学科試験に重大な影響を与えているのだとか。

たとえば「軌道敷内を通行してはいけない」という問題文に対して、これが正しいかどうかを判断するのですが、標準語の質問返答体系では、この内容は合っているので「◯」としなければならないのですが、鹿児島方言特有のハイイイエ体系では「✕」になってしまうそうで、それに忠実に返答すると不正解ということになります。

 

ハイイイエではありませんが、沖縄で船舶免許の試験でこれに近いことがありました。

方向を表す沖縄方言では「ニシ」は「北」を意味するのですが、問題文では当然ながら「西」の意味で出題されており、そこで躓いた受験者の老人はそれまで何十年も漁船を操っていたにも関わらず、船舶免許取得ができずに漁業を廃業したそうです。

ちょっと方言に対する配慮が不足していたようです。

 

 

方言は急速に消えていっているようです。

ユネスコが2009年に「消滅危機言語」の調査結果を発表しました。

日本でも、アイヌ語八丈語奄美語、沖縄語等、8言語が危機とされました。

 

なお、このうちアイヌ語以外は日本では通常「方言」と扱われていますが、ユネスコの基準では独立した言語と見なされるそうです。

政治的な思惑も関わり、多くの言葉を方言としていますが、これらは十分に言語としての資格があるとか。

 

そして、「言語の体力」というものを判定していくと、その言語が今後残っていくかどうかが予測できるのですが、日本ではそれらの言語も、他の方言も含めて多くのものが消滅の危機にあるそうです。

 

しかし、木部さんによれば「方言でしか表現できない情景」があるそうです。

標準語だけでは表せないものが地方にある以上、方言は何らかの形で守らなければならないのでしょう。

 

じゃっで方言なおもしとか (そうだったんだ!日本語)

じゃっで方言なおもしとか (そうだったんだ!日本語)

 

 

「私を最後にするために」ナディア・ムラド著

2018年のノーベル平和賞は、「戦争兵器として用いられる性暴力の撲滅を目指す取り組み」を受賞理由として、コンゴ民主共和国のドニ・ムクウェゲ氏と、イラクの少数派ヤジディー教徒のナディア・ムラド氏に与えられました。

 

この本はその一人のナディア・ムラドさんが、その壮絶な経験を描いたものです。

 

ナディアさんは、イラク北部で暮らしていた少数派のヤジディー教徒(本書ではより現地発音に近づけて”ヤズィディ教徒”と綴られています)の一人です。

以前から周辺のイスラム教徒とは様々な軋轢があったようですが、それでもその一画に暮らしていました。

しかし、ISIS(イスラム国)がその地域に勢力を伸ばしていたことで、その生活は地獄のような境遇に陥ることになります。

 

ヤズィディ教とは、イラク周辺に広がる一神教の宗教で、教徒は100万人ほど居るものの周囲の絶対多数を占めるイスラム教からは邪宗とみなされてきた経緯があります。

 

イスラム国が周辺を制圧した時には、その地域のイスラム教徒たちは彼らに反抗しなければその生命を脅かされることはなかったものの、特にイスラム国に邪教徒とされたヤズィディ教徒たちは極めて危険な状況にさらされることになります。

 

ナディアの家族たちが暮らしていたイラク北部のコーチョという村にもイスラム国が来襲します。

圧倒的な武力で制圧され、男性は皆殺し、女性でも中年以上の人々は同様に殺され、若い女性のみは性奴隷として拉致、少年たちは洗脳して自爆テロ要員として使われるということになりました。

これが21世紀の地上で起きることかと思うような、凄惨な状況の描写が続きます。

 

その後、イスラム国の戦闘員でナディアを奴隷として買った者がわずかな隙を作ったことで、彼女は逃亡しなんとか無事に逃れたところまでが描かれています。

しかし、私にはこの本を読み始めた時から、その文字列を読みながらも本書題名にある「私を最後にするために」が頭から離れませんでした。

 

「私を最後にするために」何をすればよいのか。

 

この事件がイスラム国の特異的な性格のために起きたということならば、イスラム国を打倒しさえすれば良いのでしょう。

しかし、このような「戦争兵器として用いられる性暴力」は決してイスラム国などのイスラム過激派だけのものではありません。

 

さすがに、イスラム国やボコ・ハラムのように武装集団の指導者自ら性暴力を押し進め、組織全体が動くということは少ないでしょう。

しかし、集団としては禁止したとしても末端で好き放題ということは、それ以外の勢力によるものでも繰り返し起きてきたのが歴史の事実です。

 

近いところでは、旧ユーゴスラビアでの紛争でも多くの女性が性暴力にさらされたという報道がありました。

それ以外の地域でも、そういった行為はいくらでも見られます。

 

それでは、「戦争はしても、性暴力はするな」とでも国際的に決めますか。

そのような一文を国際的な条約としたところで、守られるはずもないでしょう。

唯一、効果的なのは「戦争はするな」ということでしょうが、これもほぼ不可能です。

 

結局、本書でナディアさんがその悲惨な経験を明らかにしたとしても、その発生を防ぐということはほぼ不可能というのが厳しい現実です。

 

ノーベル平和賞は、ノルウェーのノーベル委員会が人類平和に対して自らの信念に基づき選定しているとも言われます。

ナディアたちを平和賞受賞者としたのは、もちろん彼女たちのような犠牲者をこれ以上出したくないという思いをノーベル委員会自体が強く打ち出したということなのでしょうが、その前途は長く暗いのではないかと感じます。

 

 

THE LAST GIRLーイスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語―

THE LAST GIRLーイスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語―

 

 

 

「はじめての中国語『超』入門」相原茂著

昔は外国人なるものは都会に行けば居たかもしれないけれど、田舎町にはほとんど関係のない存在でした。

しかし、最近では熊本南部のわが町にも農業研修生という名の低賃金労働者も多数来ており、またクルーズ船でのツアーの中国人もしょっちゅう現れるようになり、いつものスーパーにも時々訪れています。

その多くは中国人のようで、まったく意味の分からない言葉を話しています。

 

おそらくあれが中国語だとは思うのですが、書かれる文字は簡体字とはいえある程度何が書かれているかは想像はできるものの、話される言葉は全く不可解。

そんなわけで、ちょっとは分かるようになるのかもと思い、この「超入門」という本を読んでみましたが、やっぱりほとんど分からないようです。

 

第1章の副題にもなっているように、「中国語 発音よければ 半ば良し」だそうです。

上がったり下がったりの歌を歌っているような「声調」というものがあり、さらに子音も母音も日本語よりはかなり複雑なようです。

 

声調というものは、中国語独特のもののようです。

これまでもそれについての話は聞いたことがありますが、きちんと整理してみたことはありません。

第1声は「高く、平ら」

第2声は「急に上昇」

第3声は「低く、低く、抑える」

第4声は「急に下げる」ということです。

そして、大変なのは、日本語のカナで書いてみれば同じになっていても、声調が違えばまったく違う意味になってしまうということです。

 

「マー」と読む言葉でも、第1声なら「お母さん」第2声で「麻」第3声では「馬」第4声では「ののしる、しかる」という意味となるため、正確に発音しなければまったく伝わりません。

 

日本語も漢字で書いてある部分は中国人があちら風に読めるのですが、それも全部声調や子音・母音発音も中国風に読んでしまいます。そのため、日本人の名前も完全に中国風に読まれるので、誰のことかさっぱり分からなくなるようです。

 

中国語の文法では、英語風に表すと、基本的に「SVO」の構成だそうです。

そして、日本語と違い多くの場合に主語を必ずいれなければなりません。

主語に続いて動詞が入るということで、どうも見た感じは英語に近い雰囲気がするようです。

 

明治期に日本が西洋の事物などを取り入れた際には、漢字を使った造語が多数作られました。

そして、その頃には多く来日していた中国人留学生などを通じてそういった言葉が中国に伝わり広く使われているものもあるそうです。

ただし、そればかりが原因ではないでしょうが、漢字では日本語と中国語とまったく同じ字を使っていながら、意味が相当違うという言葉も多く、これには注意が必要です。

たとえば「告訴」は単に告げること、知らせること

「工夫」は時間、ひま

「勉強」は嫌々ながらすること

といった具合です。

 

日本語は言わずに済ませる語句というものが多いのですが、中国語では略さずに言わなければならないものがあります。

「お茶をどうぞ」と言いますが、中国語では清喝茶、すなわち「飲むお茶をどうぞ」と言わなければなりません。

どのような場合でも主語と動詞を必要とするようです。

 

どうも、同じ漢字を使っているだけに油断しがちですが、まったく違う言語であることを忘れずにいたいものです。

 

はじめての中国語「超」入門 [ソフトバンク新書]

はじめての中国語「超」入門 [ソフトバンク新書]

 

 

「唐宋伝奇集(上)」今村与志雄訳

「伝奇小説」とは、少々不思議な感を抱かされるような状況を描かれるものということで、現代でも書かれることがあるのですが、実は中国の唐宋の時代に大きく発展した様式のようです。

その前の時代の六朝時代には「六朝志怪」と呼ばれる小説の形式が流行しました。

これは「怪」と言われるように奇怪な話を描くというものでしたが、唐宋時代に入るとそのような怪は扱わずに少し不思議といった程度のものが好まれるようになります。

 

その作者も多いのですが、この本の中にも載っている李桂(本当は女偏で読みは「あ」)伝の作者、白行簡は、あの白居易の弟ということです。

 

謝小我伝という作品で扱われているのは、商人の父と夫が、商旅行中に盗賊に襲われて殺され、一人残った主人公が敵討ちをやり遂げるのですが、犯人を探す手がかりとなるのが、夢に父と夫とが表れて「わしを殺したのは、車中の猿、門東の草だ」などと告げ、その謎を解いて犯人を突き止めるというもので、その部分が伝奇となっています。

 

中国ではすでにその当時に現代に通じる人生の機微や、人と人とのやり取りなどがあったということが見られ、文化というものを感じさせられます。

 

唐宋伝奇集〈上〉南柯の一夢 他11篇 (岩波文庫)

唐宋伝奇集〈上〉南柯の一夢 他11篇 (岩波文庫)

 

 

「教科書には書かれていない江戸時代」山本博文著

著者の山本さんは歴史学者で、東京大学史料編纂所の教授ですが、長年にわたり東京書籍という教科書会社の中学社会科教科書編纂に関わってきたそうです。

教科書というものの性格上、歴史の話題でも学会でほぼ確定したことしか書けず、またあまり細部にまで筆を進めるわけにも行かず、少々不満に感じていたので、教科書には書けなかった部分を思い切り書いてしまいましたという、そういった性格の本になっています。

 

そんなわけで、書かれている内容は、

「武士の切腹の実態」とか「参勤交代の実際」とか、「幕末のある旗本の一生」といった、学校の生徒はそこまで知らなくても良いだろうが、面白い話を取り上げています。

 

武士の切腹というものは、戦国時代にも戦に敗れた者が自殺する場合に行われていましたが、江戸時代という戦乱もない時代にこれだけ多くの自殺者が出たというのも世界的にも珍しい話かもしれません。

なにか問題が生じた場合に責任者が切腹するということが頻繁に発生しましたが、それはその事態に対する責任を取ってというだけでなく、その担当者としての真心を示すという意味が強かったようです。

とはいえ、以前読んだ別の本に書かれていたように、この習慣のためにかえって日本に無責任体制が広がってしまったとも言えるでしょう。

 

参勤交代という制度は、幕府の大名統制策としてできたのでしょうが、これが実は江戸時代という時代の性格を決めたとも言えるほどの意味があったようです。

1年毎に領国と江戸を往復し、藩士も相当数が随行することで、江戸文化と地方との交流も進みました。

その費用も多額であったと言われますが、松江藩の場合で参勤交代の道中の費用は約4000両という記録が残っており、藩財政の総額から見ると約3%と意外に少ないそうです。

しかし、その後の江戸での駐在費用が多額であり、道中費の10倍以上、藩財政の30%以上がそれに費やされたとか。

 

旗本の一生という項では、戸川伊豆守安愛(やすなる)という人物が取り上げられています。

幕府大番頭という身分の旗本で、家禄3000石という上級武士ですが、江戸時代でも安定期であれば形だけの役職に就きのんびりと暮らせたのでしょうが、幕末に出仕していた安愛は大変な一生を送ることになりました。

14代将軍家茂に28歳の時に使え始めた彼は小納戸役となり、将軍側近となります。

家茂は京都の天皇との会談も強いられるということで、江戸と京都との往復も多く、安愛もそれに随行しています。

さらに、将軍からの命令であちこちに使者として遣わされたり、江戸の大老から急ぎ戻るようにとの命令が来たりと、早馬に乗ってあちこちを駆け回るという仕事ぶりでした。

家茂死後も、通常ならば自分も引退するところを、次代将軍慶喜に使われ、さらに明治になっても政府から召し出されて官職につくという、休みのない人生を送り52歳で亡くなっています。

 

江戸時代をよく見ていくと、それがそのまま現代まで続いているということが多いことが分かります。

それは戦国時代までとはかなり異なるもので、日本という社会の性格はその時代に形成された部分が多いということなのでしょう。

 

教科書には書かれていない江戸時代

教科書には書かれていない江戸時代

 

 

「危険不可視社会」畑村洋太郎著

「危険学」で有名な畑村さんは、東日本大震災福島原発事故のあとも大活躍されていますが、この本はその直前、2010年に出版されたものです。

したがって、東日本大震災原発事故の教訓については含まれていないばかりか、本書中の原子力発電所についての記述も少々的外れになってしまったのは残念ですが、本の内容は触れずにおくのはもったいないほどのものです。

 

現在の日本は、あまりにも「安全」というものを重視しすぎて、逆に「危険」があることを覆い隠し、見えなくしているようです。

それが「危険不可視社会」という本書題名にもなっている状態です。

特に、原発の状況はそれをよく示しています。(その後は大逆転してしまいましたが)

つまり、「原発は絶対に安全」ということを強調するために、「原発の持つ危険性」は故意に無視されてしまい、正当な危険性評価とそれへの対応というものも取れなくなってしまっているということです。(結局それが実現してしまいました)

 

安全な状態というものには、「本質安全」と「制御安全」というものがあります。

かつて、ビルの入口に設置された大型自動回転ドアに子供が挟まれて死亡するという事故がありました。

このドアには多くのセンサーが設置され、異常を感知するようにされていたのですが、小さな男の子が走ってドアに飛び込むという事態を想定されておらず、事故に至りました。

このような状況が「制御安全」の落とし穴になります。

事故の対策として、さらにセンサーを増設するとか、制御方法を変えるとかいった対策をしても、制御安全の上積みにしかなりません。

しかし、「本質安全」を目指すなら、そもそもあのビルに回転ドアは不向きということで別のドアに替えるとか、回転ドアでも軽い素材にして人が挟まれたらドアの方が壊れるという具合にすることになります。

 

制御安全というものが現代にここまで発展してきたのは、マイコン、すなわちマイクロコンピュータの急速な発達のためと言っても良いようです。

マイコンを用いることで、機械の働きを求めているように作ることが可能となり、機械の構造自体を考えるというよるは、機械の制御をマイコンによって変えることで、安全を追求する方向に進んでしまいました。

 

しかし、マイコン自体のトラブルも多発しました。

自動車でもオートマチック車の制御にはマイコンが不可欠でした。

ギアの切り替えをマイコンで制御するということが行われてきましたが、その初期にはマイコンの不良で異常運転をしてしまうという事故も多発したようです。

ドライバーの操作ミスということで片付けられたものが多かったのですが、実際はマイコンのプログラムミスや不良によるものも相当数あったようです。

 

機械には寿命があり、そのうちに必ず故障するというのは避けられません。

しかし、日本のものづくりの技術が高かったためか、メーカーの想定をはるかに越える年月の後も使い続けている人が多いようです。

扇風機が使用中に火を吹くという事故が多発しました。

それらは使用して30年以上たつというものでした。

これはメーカーの責任期間をはるかに越えていると言えますが、それでもやはりこういう事故が起きてしまうとメーカー責任を問われることになります。

特に危ない温風機やファンヒータなどを回収するというメーカーの広告が続くこともありました。

メーカーも何らかの対策が必要なのかもしれません。アポトーシス(自殺)する機械というものを作る必要があるのかも。

 

機械や設備における事故というものは毎日各地で起きているのですが、ニュースなどになるのはごく一部です。

特に、使用者に責任があるような事故はほとんど報道されることはなく、機械や管理者に責任がある場合だけ大きく騒がれます。

しかし、実際は使用者の責任といっても本質的に装置側に問題があることもあります。

エスカレーターで歩いて上がり下がりするのは危険だと言われていますが、なかなかやめようとせず、それが原因の事故も頻発しています。

本人が悪いといえばそうなのですが、止めさせない管理者にも責任があると言えそうです。

 

遊具で遊ぶ子どもたちが事故にあうということもありました。

そのため、危険と言われた遊具、特に遊動円木、箱型ブランコ、回旋塔という三種の遊具は全国の遊園地から姿を消しました。この三種を「遊具絶滅三種」と呼ぶそうです。

しかし、これらの遊具も危険な部分を変更して改良すれば危険とは言えなくなります。

特に、「生存空間」という隙間がないために挟まれると重大な事故につながったのですが、それも十分な生存空間を確保するか、逆にまったく入り込めないようにするかという改修で、使い続けることが可能でした。

それが、管理者側の危険回避一番という対応で、除去すればそれで良しということになってしまいました。

結局、ああいった子供の運動能力を高めるような遊具が皆排除され、乗っても面白くないようなものばかりになり、子供も遊ばなくなるそうです。

 

著者は阪神淡路大震災の際も現地の視察に訪れたのですが、破壊された建物、完全に無事な建物という差が激しかったそうです。

これは1981年の建築基準法改正により、それ以前と以降で建物の強度がまったく違ったためでした。

しかし、建築基準法改正はあくまでも新築建物の基準であり、既存の建物については触れていません。

これを「既存不適格問題」と言います。

これらの建物も建てた時は適法でした。その後は法改正で基準を満たさなくなっていますが、すぐに改装とか使用禁止とかいうことはできません。

しかし、既存不適格の建物があるということで、危険が高まっているのは確かです。

社会のコストは高くなりますが、何らかの対策が必要です。

(この指摘は熊本地震でほとんどそのまま再現しました)

 

なお、中の挿話で一つ興味深いのがありました。

アメリカ、ヒューストンでエレベータ事故で日本人が死亡したのですが、アメリカの警察の調査で関係者が故意に起こしたのではないと判明すると、「事件性がない」としてそれ以上の捜査はしなかったそうです。

アメリカには「業務上過失致死傷罪」というものがないので、それ以上は警察は関与しないとか。

そのため、民事訴訟で損害賠償を求めるしかないのですが、被害者側がその証拠を集めるしか無く、訴訟も困難を極めたそうです。

日本やヨーロッパでは業務上過失致死傷罪が存在するため、最初の捜査でも警察が関与するのですが、国による違いが大きいところなのでしょう。

というか、アメリカがひどすぎると感じますが。

 

さすがに畑村さん。中身の濃い本でした。

 

危険不可視社会

危険不可視社会

 

 

「ふしぎな県境 歩ける、またげる、愉しめる」西村まさゆき著

県と県との境、県境というものは、多くは山の尾根や川にあるのですが、時には町中にあったり、飛び地があったりというところもあります。

そういった、ちょっと変わった県境を見るのが趣味という西村さんが、全国各地の変わった県境を訪ねて紹介してくれます。

なお、西村さんは自動車の免許を持っていないということで、こういった旅は大変だったようです。

(「県境」は「県」と「県」との境ということですが、この本では都道府県の境すべてを含むこととしています)

 

「見た目で県境がわかるところはないか」

多くの県境は山の上や川の中であるために、あまり「見てすぐわかる」県境というものはないのですが、それが東京練馬区と埼玉県新座市の間にあります。

大泉学園駅からバスに乗り、天沼マーケット前というバス停を降りるとそこに「県境」がありました。

道路の歩道の作りが明らかに異なり、東京側はブロック組みの歩道に対して埼玉側はアスファルト舗装に点字ブロック

また、車道のアスファルト舗装の質も東京と埼玉ではっきりと違いが分かるそうです。

 

奈良県奈良市京都府木津川市の県境には、そこをまたいでイオンモール高の原というショッピングモールがあるそうです。

店内の県境の位置に茶色いタイルでラインが引いてあるとか。

なお、建物の8割が京都府ですが、法人税や固定資産税は敷地面積の比に応じて按分しているそうです。

 

福島県新潟県山形県の三県の境は飯豊山山頂付近なのですが、福島県の領域が飯豊山の稜線をたどって、幅数mで延びています。

いわば「盲腸県境」となっているそうです。

飯豊山山岳信仰の神聖な山ということで昔から開けていたことに加え、福島県明治維新後に県の領域があれこれ変わったということもあり、このような変形の県境になったとか。

 

埼玉、栃木、群馬の三県境地点というところが、観光客を集めるほどになっているそうです。

地主さんが看板と案内札も立てたとか。

ここも含め、かつては境の川の流れに沿って県境を決めていたのが、その後に川の流路が変化したために不自然な県境ラインができたり飛び地ができたりと言ったことになったようです。

 

最初に書いたように、著者の西村さんは運転ができないので車が必要な時は知人に頼んで運転してもらったそうですが、飯豊山登山の際は登山経験がほとんどないにも関わらず、ガイドを雇ってまで山頂を見に行ったそうで、生命の危険をかんじたそうです。

エラいというか、物好きにも程があるというか、大したものです。