爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「3D地形図で歩く日本の活断層」柴山元彦著

内陸型の地震の多くは活断層付近で起きるということは知られてきましたが、そんな活断層というものが実際にどこにあって、どのようなものかということはまだそれほど一般に知られているものではないかもしれません。

 

活断層の分布というものを見れば、日本中にあるということが分かります。

本書はその中でも有名な断層を、国土地理院の地形データなどと基に著者が3D化した図や、実際に訪れて撮影した写真で示したものです。

 

 「活断層」とは、260万年前以降の第四紀に活動した(つまりズレて地震を起こした)ことがあるものを言い、それ以上前のものは単に断層というそうです。

 

掲載されているのは北海道から九州まで34の活断層です。

行って見たことのあるところも含まれています。

 

日本を縦断する大断層の「糸魚川ー静岡断層」は延長300km,またそこから直角に伸びる中央構造線の先端部の赤石断層など、私の父母の出身地である長野県の伊那盆地のすぐそばであり、昔から見てきた風景が断層形成によって作られた景観であったことが分かります。

 

岐阜県の根尾断層は最も激しかった内陸地震と言われる濃尾地震震源地ですし、兵庫県の諏訪山断層、野島断層は阪神淡路大震災震源地です。

また、新幹線の新神戸駅は諏訪山断層の真上にあるとか。

そのために断層が活動しても破壊されないように特別な構造で作られているそうです。

 

各地の断層はちょうどその地が谷や川の流域となっているために、交通の適地でもあり、鉄道や道路がそれに沿って作られているところが多いようです。

その構造を強固にするということも、宿命のようなものなのでしょう。

 

また、掲載されている写真を見ても、平地から切り立って屏風のように見える山地の地形というものは断層によって作られたということがよく分かります。

結局、日本の山地の景観というものはこういった断層によってよりダイナミックに見えるようになったということなのでしょう。

 

なお、2016年の熊本地震震源ともなった、日奈久断層も掲載されており、その代表的な地形としては新八代駅から北方へ伸びる山地が載せられています。

この一帯は我が家からもよく見えるところで、八代平野を囲む屏風のような姿を見せています。

地震の巣であることは間違いないのでしょうが、恐ろしさの中に美しさがあります。

 

なお、この部分で「八代」と書くべきところが「八千代」と書かれているのはどうしたことでしょうか。

引用された地図にも「八代」と表記があるにも関わらず、本文中にはすべて「八千代」と書かれています。

ちょっとチェックが甘かったようです。

 

3D地形図で歩く日本の活断層

3D地形図で歩く日本の活断層

 

 

 

「80年代SF傑作選 上」小川隆、山岸真編

私も高校生大学生であった1970年代にはよくSF小説を読んだのですが、それから就職、結婚と続いたので80年代にはあまりSF(というか、どういった本であっても)を読む機会が無くなりました。

だからというわけでもないのですが、こういったアンソロジーでも読んで一度でその時代を概観してやろうということです。

 

本書は出版は1992年、80年代が終わってすぐに選んでしまったようです。

編者の小川さん、山岸さんという方々については良く知りませんが、作家というわけではないようです。

 

内容はすべて海外のもので、80年代初頭には取り上げた作家たちも皆無名であったということです。

アメリカでも80年代はSFがブームとなった時代であり、彼らも一気に有名になり活躍しました。

とはいえ、私が知っていた名前はゼラズニイだけですが。

 

80年代というのは、実世界の科学技術も大きく飛躍した時代と言えるでしょう。

バイオテクノロジーも急速に進歩し、またインターネットが形が見えだしたと言えるかもしれません。

そのせいか、収録された作品にもそういった科学が取り入れられることが多いようです。

それ以前の時代のSFと比べると、色合いがかなり変わって感じられるようになりました。

 

個々の作品については取り上げませんが、一つだけ面白い部分を紹介しておきます。

火星に駐在している若者が音楽を演奏し、それが地球でもヒットするというアレン・M・スティールの「マース・ホテルから生中継で」という作品ですが、状況は非常にSF的ですが、その中で演奏した音楽を「LPを再プレスし」「CDが大ヒット」だそうです。

まさか、演奏曲がデジタル配信されるようになるとは予測できなかったのでしょう。

 

80年代SF傑作選〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

80年代SF傑作選〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

 

 

 

「世論調査とは何だろうか」岩本裕著

内閣支持率というものが時々発表され、どうやら政権もそれをかなり気にしているようです。

また、「憲法改正について」とか、「自衛隊派遣について」とか、何か政治上の問題があるとそれに対する国民の意見を知るためと称し世論調査が実施され発表されます。

 

どのような調査でも、それを実施した機関(新聞社等)が違うと数字が違うということも起きますし、質問の仕方が論議を呼ぶこともあります。

こういった、世論調査というものについて、NHKでこれを担当する部署のNHK放送文化研究所の岩本さんが様々な見地から書かれたものです。

 

民主主義というものは、選挙というもので動きますが、当選した首長や議員はある程度の任期がありその間はその仕事を続けることになります。

しかし、政治上の問題は常に起こり続けておりその度毎に選挙をするわけにも行きません。

世論調査というのは、それを補完するような役割を果たすことができるものとも言えます。

 

戦前の日本では世論を聞き政治を進めるなどという体制にはなっていませんでした。

敗戦後に日本を統治したGHQは日本の非軍事化と民主化を強力に推し進めました。

そのため、世論調査というものも必要であり実施を求められましたが、政府自体がそれをやるわけにはいかず、新聞社や放送局が実施することになりました。

とはいえ、その実施のノウハウも無くGHQが初歩から教えるようにして始まったそうです。

世論調査の要素として、調査のデザイン、サンプリング、面接方法、分析手法が重要ですが、これにGHQの組織CIEのメンバーと、主に新聞社が協力し調査の方法を確立していきました。

 

世論調査の進歩は主にアメリカの選挙結果予測とともに発達してきました。

すでに1930年代から大統領選挙の結果予測を大々的に実施していたのですが、1936年の選挙は現職のルーズベルト大統領と共和党のランドン候補の一騎打ちでした。

当時、選挙結果予測で最も注目されていたのが、雑誌「リテラリー・ダイジェスト」が実施した予測調査で、実に1916年選挙から5回連続で結果を的中させていました。

そのやり方は、実に1000万人以上に往復はがきを送って返送してもらうというもので、200万人以上の回答を得たそうです。

その予測では、ランドン候補の勝利となりました。

しかし、ギャラップ社はわずか3000人の回答でルーズベルト勝利を予測しました。

結果はルーズベルト再選でした。

これは、調査対象の選び方によるズレだったのです。

リテラリーの対象は、当時その雑誌を購読している読者や、電話を持っている人、自動車を持っている人といった、富裕層だったのです。

ルーズベルトニューディール政策は労働者に職業を与えるという意味が強く、富裕層には評判が悪かったものです。そのため、リテラリーの調査には偏移がかかっていました。

しかし、ギャラップは調査対象がアメリカの有権者全体の縮図となるように考えて選びました。そのためにより正確なサンプリングとなったということです。

 

とはいえ、そのギャラップ社も1948年の選挙では予測を誤りトルーマン敗戦を予告したものの再選を果たしました。

ギャラップ社得意の「割当法」によるサンプリングを実施したつもりが、調査者の個人的な判断が集積して狂いが出たものです。

 

その後、日本の選挙結果予測では電話によるRDD法の調査が普及したために、選挙期間内に何度でも実施できるようになり、結果を刻々と予測していけるようになりました。

また、事前の世論調査でなく出口調査実施による結果の速報という方向へも進歩し、あの「当確予想」のスピード競争になります。

アメリカの方法にならい1993年から始められた出口調査は、最初は聞いた人に怒られるということも頻発したそうですが、徐々に浸透していきます。

なお、出口調査には「公明バイアス」と「おばあちゃんバイアス」というものがあるそうです。

これは、公明党支持者は期日前投票をするので、出口調査では低く出るということ、そしてお年寄りの女性は調査を拒否することが多いので、出口調査の数字に入りにくいという傾向を言います。

このようなバイアスも経験上どの程度のものかを試算して補正するようになってきました。

 

RDD法というのは、コンピュータの発達により現実化したものですが、ランダムに発生させた電話番号に電話して調査するというもので、以前の面接法や質問表送付法に比べてはるかに事前の準備が楽で、コストもかからず、緊急の調査にも対応可能です。

しかし、今の所固定電話のみなので、それが一般家庭の電話か、事業所などの電話かの区別もできず、また一般家庭の場合平日昼間にかけると(今では留守が多いが)主婦が出ることが多かったという特徴があります。

この辺もできるだけ平均化するために電話を複数回かけるとか、家族の構成を聞き、誰に聞くかを決めるといった補正策が必要でした。

 

現在では、RDD法の最大の弱点は携帯電話だけの人を捉えきれない、すなわち若年層を対象と出来ないことです。

そのため、携帯電話の番号を使うという方策も考えられていますが、今度は対象地域が不明となり地域限定ができなくなります。

また、携帯の場合は知らない番号からの電話には出ないという人も多く、特に女性はその傾向が強いので女性の捕捉率が低くなります。

韓国ではすでに携帯対象のRDD法を採用していますが、やはり若干の偏移が出てくるようです。

 

世論調査の問題点として、調査する側の立場によって質問の仕方が変わり、結果も違ってくるという問題があります。

数年前に「集団的自衛権行使」についての世論調査を各社が実施したのですが、読売新聞では「71%容認」、朝日新聞では「行使容認反対63%」とまったく逆の結果が出てしまいました。

これは質問方法に問題があり、特に「中間的選択肢」を入れることによって、大きく結果を左右することができます。

例えば、上記読売新聞は「全面的に使えるようにすべきだ」が7.3%、「必要最小限度で使えるようにすべきだ」が64.1%、「使えるようにすべきではない」が25.5%で、前の2つを合わせて71%を「容認」と判断しています。

一方の朝日新聞は、答えは2つのみで「行使できない立場を維持する」が63%、「行使できるようにする」が29%でした。

 

このように、世論調査と言いながら「世論操作」をしているようなのが、現在の世論調査であるという一面もあります。

上智大学の渡辺教授は、世論調査の設問で避けたい表現として、

「場合によっては」「慎重に検討すれば」「必要最小限の」「事情があれば」といったものを挙げています。

まさに、上記の読売新聞調査はこのタブーを踏みにじっています。

 

さらに、日本人は特に「中間的選択肢」を好むという性質が強いようです。

3つないし4つの選択肢を示すと中間のものを選ぶ傾向が他国と比べて強いそうです。

 

インターネットを用いる調査も、今後は増えてきそうですが、これもサンプリングが公平であるとは言えず難しいもののようです。

しかし、これを無視していてはこれからは調査が成り立たないことにもなりそうで、さらに検討が必要となっています。

 

世論調査自体が、現在では危機に直面しているとも言える状況だそうです。

しかし、世論調査は我々の声を伝える武器にもなるものです。なんとか多くの人々にその意識を強く持たせ、より良い世論調査を確立していく必要があります。

 

世論調査とは何だろうか (岩波新書)

世論調査とは何だろうか (岩波新書)

 

 

「外来種のウソ・ホントを科学する」ケン・トムソン著

ユーモアとウイットに満ちた文章から、著述家かと思いましたが、著者のトムソン教授はイギリスのシェフィールド大学の生物学者ということです。

 

世界のあちこちで、外来種の生物が在来種を脅かし滅亡させているといったことが話題になります。

しかし、本当にそうだろうかという疑問を持つ人はあまりいないようです。

著者は、あちこちで調査をしていき、外来種の生物が在来種を滅亡させるという事態に至る例というのはほとんどないということを明らかにします。

それよりも、生物の種を増やしているということで、その土地の多様性を増しているという例の方が多いようです。

 

そもそも、生物は生物種として誕生してから滅亡するまで一つの土地に居続けるということが、普通であるとは考えにくいものです。

生物種として過ごす期間がどの程度かは種によるでしょうが、長いものでは数千万年から数億年になるものもあります。その間の地球環境を考えてみると温暖化も寒冷化も繰り返し起きていますし、大陸移動で陸が海になるということもあります。

それにもかかわらず、同じ土地でずっと行き続けている方が難しそうで、自然のままでも生物は広く移動していると考える方が実態に近いようです。

本書では最初にラクダを例に挙げています。

ラクダはどこのものか、と問われれば大抵の人は中東近辺とこたえるでしょう。

しかし、ラクダ科の動物の歴史を見ると、4000万年ほど前に北アメリカで出現し進化してきました。

その後南アメリカにも進出しますが、アメリカ大陸を出てアジアに渡ったのは氷期に地続きとなったベーリング海峡を通ってのことでした。

その後、北アフリカからアジアに広がりさらに進化したのですが、「ラクダの出身地はどこ」という質問には北アメリカというのが正解になります。

 

このように、気候の変動というものは生物の生育地域を大きく変える要因となっており、その影響を無視してその地域の生物種というものが遠い過去から同一であったかのような思い込みは間違いです。

つまり、「在来種」という生物種は限られた時間の中でだけの話であり、その時間をどの程度に取るかによってまったく違ったものを示すことになります。

 

そのような自然の生物の移動も無視できるものではありませんが、現代で人々がよく問題視するのは「人間による分散」です。

元々は現生人類も地球上すべてに広がっていたわけではなくここ数万年で隅々まで進出したのですが、動物の家畜化や植物の作物としての利用を始めたために、人間が移動するとそれについて行く動植物も増えてきました。

これらは、意図するかしないかに関わらず、人間の進出先に広まってしまいます。

コメやムギといった植物は地球上のほとんどの地域で「外来種」なのですが、それを問題視する人はあまりいません。

 

外来種を過度に敵視するというのは、1958年にチャールズ・エルトンの書いた「侵入の生態学」という本からとしています。

ただし、この本は正統的な科学論文ではなく、教科書の類でもありません。あくまでも一般向けの著作ということですが、研究者の間にも大きな影響を与えたそうです。

とはいえ、彼の著作によって湧き上がった「急成長の科学分野」すなわち「外来種侵入生物学」は実際に科学文献が出てくるまでには長い時間がかかりました。

著者の見るところどうやら科学的に何かを言えるほどの証拠が得られなかったということです。

 

アメリカに侵入した「カワホトトギスガイ」は、ハマグリの存続を脅かすとされています。実際に絶滅してしまった地域もあるようですが、しかしその本当の原因がなぜかはそれほどはっきりした事実ではありません。

実はカワホトトギスガイが侵入を始めた1980年代以前にすでに多くの環境悪化、ダム建設や富栄養化、水資源の利用などでハマグリの生育地の減少は始まっていました。

さらに、カワホトトギスガイが繁茂することでそれを食料とする水禽類などが繁殖し、結果的に湖水一体で生物の多様性が増加しているところもあります。

外来生物の繁殖イコール多様性の減少ということはないようです。

 

在来種の保護ということが言われていても、それが何時からその土地に居れば在来種と見なせるかということは定まっていません。

イギリスで言えば新石器時代以前からか、ローマ時代からか、ノルマン侵入か定説はないようです。

アメリカでも通常の解釈では「在来種」というのは1492年以前から居たものとされていますが、アメリカ原住民も植物を栽培し広域を移動したということは無視されています。

オーストラリアでも1770年にジョーゼフ・バンクスがこの地を踏んだより以前に居た生物は在来種としていますが、オーストラリア原住民が持ち込んだ可能性はここでも無視されています。

どうやら、在来性という定義そのものが人間の都合の良いようにその場しのぎで決められているようです。

 

外来種の有害性は、何らかの効果が期待されて移入された生物の場合に非常に大きくなることがあります。

人間の食用や、カモやアヒルの養殖用としてアメリカに持ち込まれたアフリカマイマイは、その地の環境が最適であったために広く繁茂するようになってしまいました。

しかし、それを食べる天敵だからと言って導入されたカタツムリの一種「ヤマヒタチオビ」はアフリカマイマイよりも他の種の小型のカタツムリの方が好みだったようで、多くの種が食べられて絶滅してしまいました。

このように、生物防御の名のもとに導入される天敵がかえって他の生物に大打撃を与えるという例は頻発しているようです。

 

外来種の侵入の被害額として、多額の金額が挙げられることがあります。

しかし、それは多くの場合はその防除として行われる施策のための費用であることが多く、放っておけば被害額もないということです。

外来種というだけで、除去しなければと思い込み、無駄な金を使うということでしょう。

 

どうやら、単純に外来種は悪者、在来種が良い者で、外来種は絶滅させねばならないというのは無駄な努力であることが多いということでしょうか。

 

外来種のウソ・ホントを科学する

外来種のウソ・ホントを科学する

 

 ただし、イギリスにおいてもこの本はどうやらかなりの論争を引き起こしたようです。

「北東アジアの中の弥生文化 私の考古学講義 上」西谷正著

著者は考古学が専門で、九州大学名誉教授という方です。

この分野の研究者は、一般向けの講演を依頼されることも多く、その講演要旨も整備されていたということで、まとめて一冊の本とされました。

 

弥生時代から古墳時代といった古代には、一般の人々の関心も強く、講演でも多くの反応が帰ってくるようです。

本書は全3巻の中の上巻ということで、弥生文化について書かれますが、中巻では古墳文化、下巻では地域の考古学と言うテーマでまとめられているそうです。

 

大きな主題として「北東アジアの」と付けられている通り、日本国内の遺跡だけを扱うのではなく朝鮮半島や中国本土に至るまで多くの遺跡についての考察が為されており、日本の古代文化と朝鮮や大陸の関係も興味深いものだということが分かります。

 

弥生時代の環濠集落というものは、北部九州に特徴的に出現したのですが、同様のものは朝鮮半島に存在しました。

縄文時代末期から弥生時代初期に福岡平野で作られたものは、直接的に朝鮮半島の影響下にあったことを示しています。

それはその後の奴国に発展していったものということです。

 

しかし、その環濠集落も朝鮮半島で独自に発達したものではなく、起源はやはり中国大陸にあったようで、それは紀元前3000年に遡るものもあるということです。

 

他の遺物の数々を見ても、朝鮮半島と九州北部の古代における関係というものは明白ですが、それを使った人々がどのような関係にあったかということは、人骨などの証拠がなければ分かりません。

それによると、弥生時代になると人骨に大きな変化が生じ、朝鮮半島に残されているものと類似したものが出てきます。半島から渡来してきた人々が弥生文化の大きな担い手であることは間違いないようです。

 

古代の文化の広がりを、ユーラシア大陸の西と東で比較すると、漢とローマの類似性が目立ちます。

その対比をすれば日本列島はちょうどイギリスと同様の位置関係になります。

しかし、イギリスは直接ローマの軍団に占領されたのに対し、日本には漢の兵団は届きませんでした。(朝鮮半島楽浪郡などまで)

その意味では、壱岐島というところの存在が興味深いところです。

著者は、壱岐の意味を、クレタ島と比較して論じています。

クレタにはローマ時代のはるか前になりますが独自の文明がありました。

壱岐にもどうやら一つの文化的な中心が存在した時代があったようです。

2000年に壱岐原の辻遺跡が国の特別史跡に指定されました。

これは、この遺跡が魏志倭人伝にも出てくる「一支国」の王都と考えられるからだそうです。

九州北部の奴国や、吉野ケ里の弥奴国が繁栄する以前の話だったのでしょう。

 

弥生文化を語るとやはり一般の興味は邪馬台国に向かいます。

著者は邪馬台国は近畿という説ですが、九大名誉教授ということから邪馬台国九州説であろうと大方の人は思うそうですが、銅鏡の分布から近畿であろうと考えています。

この辺の事情は、九大で長く研究をしてきたとは言え、著者の出身地が大阪府高槻市であるということが関係しているのかも。

 

弥生時代の概観を見るという意味では分かりやすい本だったと思います。講演記録の再構成ということですので、そのせいもあるのでしょうか。

 

北東アジアの中の弥生文化 ─私の考古学講義(上)

北東アジアの中の弥生文化 ─私の考古学講義(上)

 

 

「世界から消えた50の国」ビョルン・ベルグ著

これまでの世界で一瞬でも存在した「国」というものは多数でしょうが、この著者のベルグ氏は独自の基準で「国の存在」を決定し、その基準で一応存在したとされる50の国々(ただし、その期間は1840年から1975年まで)について記述しています。

 

彼の採用した「国があったという証拠」は、まず「切手の発行」、ついで「目撃者の証言」そして「歴史学者の解釈」です。

この最初の条件は、あまり見たことがありませんが、確かに国と言われるものはだいたい切手を発行するものでしょう。

それ以上に、この条件を特徴づけるものが、「本書で取り上げた50の国の切手を、著者は全部持っている」ということです。

 

いや、本当のことを言えば、「著者が持っている切手の発行国をこの本で取り上げた」という方が実態に近いかもしれません。

 

2,3番目の条件を、あまり満たしていそうもない国、「サウスシェトランド諸島」というところは、国民が一人もいませんでしたが、切手は生意気にも発行しており、それを著者が入手したというところです。

またたった2週間で消失してしまった「東カレリア」も、その切手を著者はしっかりとコレクションに入れています。

 

どうも、3条件とは言っているものの、実際は「著者が持っている切手の発行国」を記したもののようです。

 

そのような条件の中ですが、日本に関わるところでは「満州国(1932-1945)」と「琉球(1945-1972)」を挙げています。

どちらも、確かに切手を発行していたのは間違いなさそうです。

琉球については、かつては独立の王国であったことも、明治になって日本に併合されたことも間違いなく記されています。

そして、琉球を占領したアメリカ軍は「解放軍として歓迎される」と考えていたということも目新しい観点です。

しかし、その期待はすぐに消え去り、日本に忠誠を誓うものばかりであったということです。

 

一瞬の内に消え去った国、それは幻のようなものも多いのですが中には消えるのが惜しまれるものもあったようです。

 

世界から消えた50の国 1840-1975年

世界から消えた50の国 1840-1975年

 

 

「ワタクシ、直木賞のオタクです。」川口則弘著

直木賞といっても、あまり文学に興味のない私にとっては、時々ニュースになる「芥川賞直木賞受賞者発表」でしか名前を聞くこともなく、当然ながら受賞者に誰が居たのかというこのもあまり記憶にありません。

 

しかし、自ら「直木賞のオタク」であることを広言し、巻末の著者略歴にも「直木賞研究家」と堂々と明記しているほどの川口さんには、十分に精力をかけて研究するにふさわしいほどのものなのでしょう。

 

直木賞芥川賞とともに、1935年に文藝春秋社を率いていた菊池寛により作られたものだそうです。

当時から、芥川賞は純文学、直木賞は大衆文学といった区分けは考えられていたようですが、曖昧であり受賞作が逆ではないかと評された年もあったとか。

 

なお、菊池寛が発案したということですが、それをきちんと形にしたのは当時の文春社の佐佐木茂索という人のようです。菊池だけではどうしようもなかったようで、その発案では文春社に原稿を送ったものの中から選ぼうかということにしていたのですが、それでは文春内部のもののようなので、他社からでも作品として刊行されたものを対象とするという佐佐木の修正でようやく今の形に落ち着いたとか。

 

最初はさほど騒がれもせず、菊池は「一行も書いてくれなかった新聞社があった」と嘆いたそうですが、川口さんの調査によると載せなかったのはただ1紙「東京朝日新聞」だけであり、他の新聞には好意的な記事がすべて書かれていたそうです。

それをなぜか菊池がそのような感想を書いていたために、後の世の人の中にはそれをそのまま引用してしまう者も出てしまいます。

 

直木賞の選考というのは、文春が選んだ候補作の中から、これも文春が委嘱した選考委員が討論して決定するわけですが、選考がおかしいという話は常に飛び交っています。

直木賞は大衆文学といっても、あまりにエンターテインメント性が強いものは選ばれず、SFは完全無視とか、推理小説は不利とか言われています。

選考の原則というものがあるようで、「同人誌からは候補にしない」「大手出版社以外の作品は候補にしない」「新書・ノベルスは候補にしない」といったものです。

大衆文学といっても、物語性よりは人間が書けているかとか、筋の運びに必然性があるとかいう点を重視するために、いわゆる「文学性」がないと残れないようです。

 

芥川賞直木賞が逆ではないかということは、繰り返し言われています。

1957年には直木賞江崎誠致の「ルソンの谷間」芥川賞菊村到の「硫黄島」が選ばれ、騒ぎになりました。

1961年の直木賞伊藤桂一「螢の河」、芥川賞宇能鴻一郎「鯨神」も同様でした。

 

直木賞に取り憑かれ、取りたい取りたいで作品傾向まで変えたのが胡桃沢耕史さんだったそうです。

1981年から「ロンコン」「ぼくの小さな祖国」「天山を越えて」の3作品で連続して落選、1983年の「黒パン俘虜記」でようやく受賞したのですが、これは直木賞受賞作の傾向に合わせて書いたと本人が告白したとか。

川口さんの見るところ、落選作の方が出来が良く、特に「天山を越えて」が一番だそうです。

 

とにかく、一つの権威となったものの周辺には面白い話、それに振り回された人が多いものと感じます。

 

ワタクシ、直木賞のオタクです。

ワタクシ、直木賞のオタクです。