爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「知っているようで知らない免疫の話」西村尚子著

免疫力がガンになりやすいかどうかに関わるとか、乳酸菌が免疫アップとか、IgEがどうのこうのといった、断片的な言葉は知ってはいても、たしかに本当に免疫とはどういうものかということは、知らなかったようです。

免疫の最初から、現状の高レベルの話まで、非常に分かりやすく書かれていて参考にできる本でした。

 

免疫という、非常に大切な生物の作用は今でも研究の最前線では多くの優秀な科学者が知力を尽くして激しい研究競争を繰り広げている分野ですが、本書の最初に書かれている「初期の生命は免疫を持たなかった」ということは、すっかり盲点になっていました。

それでは進化のどの過程から免疫を獲得したのか、これも非常に興味深い話でした。

 

単細胞生物から多細胞生物へ進化していくどこかで免疫を獲得した生物があり、そしてそれを得られた生物が生き残っていったのでしょう。

そのため、現在生き残っている単細胞生物の細菌なども免疫の仕組みを保持しているようです。

 

免疫の中でも「自然免疫」という仕組みは単細胞生物から昆虫類に至るまでの生物にも存在します。

細菌に感染するウイルスをバクテリオファージと呼びますが、それらを破壊する機能が細菌には備わっており、制限酵素という酵素はその働きをするようです。

これも免疫の一種といえますが、細菌にのみ存在しそれ以外の生物にはないようです。

 

免疫の研究においては、原索動物のナメクジウオやホヤを使っての解析が行われてきましたが、補体という分子を使ったものが中心になっています。

しかし、脊椎動物のような獲得免疫の機構は備わっていないようです。

こういった免疫システムは昆虫に至るまでの生物で同様です。

 

約5億年前に生まれた軟骨魚類という生物において、初めて「抗体」と呼ばれる新たな分子が作られるようになりました。

抗体は侵入してきた異物に合わせて作られ、鍵と鍵穴の関係で敵を無害化します。

そのため、一度作られるようになれば次からの侵入にはすぐに対応することができます。

脊椎動物には様々な抗体を作り出す機構が備わっており、それがその後の進化の主力となることができた理由の一つのようです。

 

脊椎動物の免疫細胞には、白血球(リンパ球、骨髄球他)があり、それらは骨髄で作られます。

骨髄と胸腺は一次リンパ器官と総称されます。

そこで作られた免疫細胞は全身のリンパ管をめぐり、リンパ節、アデノイド、扁桃腺などの二次リンパ器官に流れ着き、そこが侵入異物との戦いの場になります。

 

脊椎動物の最初に抗体を獲得した、無顎類(現在のヤツメウナギ等)では、マクロファージとB細胞による免疫でした。

それが進化が進むにつれ増えていき、鳥類や哺乳類ではさらに多種の免疫系を備えるようになってきました。

 

そのような哺乳類である人の体内で、病原体と免疫がどのような戦いを繰り広げるか。

まず侵入を防ぐ第一段階は粘膜と皮膚です。粘膜にある粘液には酵素や抗菌物質が含まれます。

体内に病原体が入り込むと、まず補体や好中球、マクロファージなどの自然免疫が対応します。

ところが自然免疫だけでは止められないほど強力な病原体であると、獲得免疫の出番になります。

病原体がいずれかのリンパ器官に達すると発動し、病原体の一部(破片)を樹状細胞が取り込むことによりキラーT細胞を作り出し病原体を破壊するようになります。

さらにB細胞が大量の抗体を作り出し、病原体を無毒化するようになります。

キラーT細胞、B細胞は記憶力を持っていますので、同じ病原体が再度侵入した場合は即座に対応できます。

 

このような強力な免疫システムですが、これが暴走してしまうこともあります。

それがアレルギーや自己免疫疾患といったものです。

スギ花粉などは本来は身体には無害なのですが、それを有害物と間違えた免疫システムが働きだし、過剰反応を起こします。

また、自己免疫疾患であるパセドウ病や全身性エリテマトーデスといった難病は自分の身体の細胞に対して免疫反応を起こしてしまいます。

元々、自分の細胞には免疫反応を起こさないという機構が備わっているはずでありそれを「自己寛容」と呼ぶのですが、これが何らかの理由で破綻した状態になるようです。

 

一方で、免疫が働かなくなる「免疫不全」という病気もあります。

これがウイルスの働きで起きるのがエイズであり、ウイルスが免疫系を破壊します。

元々はアフリカの奥地の霊長類のウイルスであり、それらの動物には病気を起こさなかったものが、人に感染するとこのような症状を起こします。

多くの治療薬が開発されていますが、エイズウイルスは非常に変異が速く完治までは至らないようです。

 

他にも抗体反応をめぐっては、花粉症治療薬やメタボ治療薬といった方向にも研究開発が進められているようです。

期待をして良いのでしょうか。

 

知っているようで知らない免疫の話 ―ヒトの免疫はミミズの免疫とどう違う?? (知りたい!サイエンス)

知っているようで知らない免疫の話 ―ヒトの免疫はミミズの免疫とどう違う?? (知りたい!サイエンス)

 

 

「中国の故事寓話」鈴木亨著

著者の鈴木さんは出版社の編集長などを経て著述業をされていたということで、知人友人なども実業界に多く、さまざまな話を聞いてきたようです。

 

現代においても仕事の上での問題点というのは、古代とあまり変わらないようで、昔の知恵がいっぱいに詰まった故事寓話にそっくりの状況が出ています。

これらを見直すことで、今の社会も生きやすくできるのではないかという形で書かれている本です。

 

かつて、ある中小企業の社長の新人社員を前にしての訓示を聞いたことがある。「わしなどはろくな学校も出ておらん。なんの能力もないとるに足らん男だ。そんなわしが社長になっているくらいだから、うちの部長連中は大学出といっても大したことはない。みんな負けずにがんばれ」

しかし、聞いていて下手な訓示だと感想を持った。

なぜか新入社員たちは拍手をしていたが、列座していた部長連中は鼻白んでいた。

こういう社長に聞かせたい話が史記高祖紀にある例の話です。

張良、蕭何、韓信は天才である。しかし私は彼らを越えた才能を持つ。それはこのような天才を使いこなすという才能である。

 

といった具合に多くの話をつなげていきます。

まあほとんどが聞いたことのある話だったのですが、一つだけ知らなかったものがあるので記録しておきます。

 

説苑(ぜいえん)の斉の項に桓公が人集めをした時の話というのがあり、なかなか有能な才子が集まらなかった時に、一人の卑しい身分の者がやってきて「九九ができる」として雇ってもらおうとしたということです。

そんなことは誰でもできるだろうと桓公が言うと、「桓公が賢君だということが知られているので、有能な士はじぶんより優れた君主は避ける。もし九九ができるだけのものを厚遇すれば、他の有能な士も来るだろう」と言い、実際に彼を礼遇すると多くの人が来るようになった。

というものでした。

燕の郭隗の話と似たようで少し違った雰囲気の話でした。

 

ヘタな人生論より中国の故事寓話 (河出文庫)

ヘタな人生論より中国の故事寓話 (河出文庫)

 

 

 

「思い違いの科学史」科学朝日編

かつて朝日新聞社から発行されていた「科学朝日」という雑誌があったのですが、そこで1970年代に連載されていたシリーズを単行本化したものです。

科学朝日はその後「サイアス」と名称変更したものの、売れ行き不調は止まらずに休刊となりました。

科学雑誌が根付かない日本の風潮も嘆かわしいものです。

 

さて、この本で取り上げられている「思い違いの科学」とは、昨今もはびこる「疑似科学」とか「トンデモ科学」といったものではなく、あくまでも正統派科学者たちが過去のある時期に信じていたものの、その後の研究の進展で否定されたというものを取り上げています。

 

たとえば、「生物はわいて出る」(自然発生説)とか、「交流の送電は危険」とか、「黄熱病の病原菌を見た」(野口英世)といったもので、その当時の科学レベルでは確定的なことが言えなかったものの、その後はパスツールによる自然発生説否定とか、交流発電の浸透といったことによりそれまでの通説が否定されるということはままあることのようです。

 

私の専門に近い分野の話では、「遺伝子はタンパク質である」という学説もあったようです。

1920年代に日本人の植物学者の藤井健太郎という人が唱えたようですが、染色体というものは確かに遺伝子の核酸も含まれているものの、大部分はタンパク質でできているために、そのような説も生まれる余地があったのでしょう。

実は、藤井さんも核酸も考慮したのは間違いないのですが、細胞分裂の各段階で核酸の量が変動するのが気になったようです。

そのような不安定なものが遺伝子であるはずはないと判断したのですが、実はそれは遺伝子の分裂と増殖というものの反映であり、もしもきちんと定量していれば気がついたかもしれないものでした。惜しいことをしたものです。

 

「水中で花粉が動く」というのも結構知られている話かもしれません。

ブラウン運動という、水中で微粒子が振動するという物理現象がありますが、これが一時「花粉が動く」と言われていたことがありました。

花粉の大きさは普通は30ミクロン以上であり、ブラウン運動でそのような物質が動くことはありえないことです。

しかし、ブラウンが発表した「花粉から出たデンプン粒のような微粒子が動いた」という報告を勘違いして「花粉が動く」と誤訳した日本人物理学者が多かったようです。

 

後から見れば、なぜ当時の人はこのような間違ったことを考えていたのだろうと思いがちですが、それは仕方のないことでしょう。

科学の進歩で誰もがその正解を知るようになったというだけのことです。

振り返って考えれば、現代科学でもそのような事例が無いとも言えません。

錚々たる科学者たちが唱えている学説も後の世から見れば「なんであんなことを皆信じていたのか」と言われることがあるのでしょう。

まあ、その候補をいくつか知っていますが、どれとは言いません。

 

思い違いの科学史 (1978年)

思い違いの科学史 (1978年)

 

 

「中国列女伝」村松暎著

昔から持っていた本でかなり古いものですが、その題名についてはこれまでまったく誤解していました。

「列女伝」をてっきり「烈女伝」だと思いこんでいたのです。

それでいて、中で描かれている女性たちは孝女あり、貞女ありだったのですが、おかしいとも思っていませんでした。

 

今回、ちょっと他の本でも見かけたことがあり調べなおしてみたら「列女伝」というものは元々は前漢の劉向の書いたもので、様々な女性の人生を描いたものということです。

この本も中国文学ご専門の村松さんの執筆ですので当然ながらそれを意識して書かれていたのでしょう。

 

ただし、この本の帯には「名だたる男尊女卑の国の、弱くも烈しい女の生き方」とありますので、混同してもしょうがない点もあるかと思います。

 

内容は、古代から近代まで様々な女性たちの人生です。

完全な男尊女卑、しかも家制度が絶対で父母には服従という社会ですから、そこで生きていく女性たちも酷い運命にさらされていたと言えるでしょう。

そういった中で道徳に身を捧げてしまう人もあり、逆らってしまう人もありですが、やはり今から見ると理不尽な道徳に従うというのは少し分かりにくいものです。

 

最終章は、そういった道徳はまったく無視の三女傑、漢の呂后、唐の則天武后、そして清の西太后が描かれています。

こちらの凄さはまた違った驚きです。

やはり中国という国は人間も桁外れの人がいるもんだと思います。

 

 

「”喜平さ”がつくった奇跡の村」峰竜太著

また貰い物の本です。

 

長野県の南部の下條村は、山あいの小さな村ですが財政も健全、子供の出生率も高いとして知られています。

それは、前村長の伊藤喜平さんが作り上げてきた村政によるものだそうです。

 

それはどのようなものだったのか、下條村の出身のテレビタレント、峰竜太さんが取材し、本にしました。

峰さんはお兄さんの奥様が伊藤喜平さんの妹という関係でもあり、また村内各地に親戚知人が多数いるということから様々な証言も得たということです。

 

下條村は長野南部の中心都市の飯田市の南の接する、人口4000人ほどの山間部の小さな村です。

ご他聞にもれず過疎と借金漬けの村財政で存亡の危機となっていました。

 

これを変えたのが、村でガソリンスタンドなどを経営していた伊藤喜平さんでした。

村議を勤め、村の行政の覇気の無さ、問題意識の欠如などを見てどうにかしなければと考えたそうです。

村議の時代には村の下水道整備事業に関わり、よその町村同様に国からの補助金をあてにして公共下水道整備をするはずだったところ、あまりにも巨額の整備費がかかりしかも下條村のような山間部の過疎村には過大な設備となることから、事業見直しをして費用の大幅削減に成功しました。

 

それから、1992年に村長選挙に立候補、僅差で制して初めて村長となりました。

その当時の役場は過大な職員を抱え、ほとんど仕事をしないような者もいるような非効率な職場だったようです。

まずは職員の意識改革ということで、民間のホームセンターでの販売研修に全員を派遣するということをします。

さらに、できるだけ新人採用を控えて徐々に職員数削減を果たし、人件費を抑えることに成功します。

 

ユニークなのは、道路補修などの小さな公共工事などは資材を支給するだけであとは住民に任せるという資材支給事業を始めたことです。

農業や土木業などに従事する住民が多いため、簡単な工事くらいなら自分たちでやった方が早いという土地柄もあって、非常に効率的な仕組みが出来上がりました。

 

また、住民が流出するのを防ぐだけでなく新たな子育て世代の誘致を目指し、格安の村営住宅を建てました。

ただし、そこに住むには条件があり、村や地域の行事に参加すること、そして消防団に入ることだそうです。

こういった条件は国からの補助金を貰っていては付けられません。そのために補助金なしで自前の予算ですべて賄って建設したそうです。

その結果、近隣ばかりでなく都会からも移り住む人があり、村の人口は増加に転じました。

 

このようなユニークな村長が作り出した「奇跡の村」ですが、最近は他の町村でも定住促進策を打ち出すようになり少し勢いはなくなったようです。

伊藤喜平さんも2016年で6期24年の村長生活を終え引退しました。

 

地方の過疎の町村が生き残るにはどうしたら良いか、大きな問題です。

下條村飯田市に近いという好条件や村民の団結なども強いといったことはありますが、村の財政の立て直しなどは参考にしなければならないところでしょう。

 

なかなか興味深い内容のものでしたが、これはやはり村の出身者である峰さんが書いているということもあるのでしょう。

主人公の喜平さんだけでなく、役場の職員や村民の人々など多くの人の声を直接聞くことができたために濃い内容となっているようです。

人々の話し声まで聞けたかのように感じさせる文章でした。

 

 

「恐竜はなぜ鳥に進化したのか」ピーター・D・ウォード著

ヒマラヤ山脈の頂上付近では酸素が薄くて人間は酸素マスクで吸入しなければ生きていられません。

しかし、そこで上空を見ると渡り鳥が飛び去るのが見えます。

そこは山の上よりもさらに酸素が薄いはずですが、それでも鳥たちは平気で飛行を続けています。

どうやら、鳥類というのは哺乳類より低い酸素濃度に対しての耐性があるようです。

 

地球科学や地質学、古生物学が近年非常に発展してきており、驚くべき事実が明らかになってきています。

現在の地球の大気では、酸素濃度は約21%。これはほとんど変動することもなく一定と考えられています。

しかし、それが地球の過去でも同様であったわけではないようです。

もちろん、原始地球では大気中にはほとんど酸素はなく、光合成生物の働きによって徐々に増加してきたということは間違いないのですが、それがある程度の濃度に達した後にもかなり大きく変動していたようです。

 

動物が爆発的に進化したカンブリア紀に入る前、5億5000万年前には酸素濃度は約20%弱にまで増加していました。

しかし、その後のオルビドス紀には15%程度にまで低下します。

そこから徐々に増加していき、デボン紀の初期4億1000万年前には25%まで達します。

そこから酸素濃度は急落、13%になります。

その後、急上昇し30%以上まで達し、ベルム紀の2億6000万年前が最高となります。

再び急落、15%へ。

ジュラ紀初期の1億9000万年前が最低で12%、そこから徐々に上昇して現在に至る。というのが酸素濃度の変化です。

 

これは実に大変な変化であり、たとえばジュラ紀初期といえば爬虫類や哺乳類の先祖も出現している時代ですが、大気中の酸素濃度が12%といえば現在では高山よりも薄い濃度であり、とても生存できる状態ではありません。

そのような環境で生存していたのが恐竜の祖先であり、その身体の構造は薄い酸素濃度に適したものだったはずです。

 

カンブリア紀爆発、つまり動物の初期の多様化に対応した進化というものが起きた時は、酸素濃度レベルは13%だったのですが、二酸化炭素濃度は現在よりはるかに高く20倍以上の濃度でした。

そのために、温室効果により気温も高かったのですが、そうなると水中に溶解する酸素濃度は低くなるので、海水中の酸素レベルはさらに低かったようです。

ほとんど無酸素状態のところもあるような厳しい条件が海水中の生物の進化をもたらしたというのが著者の主張です。

 

石炭紀と呼ばれる、3億3000万年前から2億6000万年前の頃には酸素濃度が非常に高くなりました。

この時期には大陸の移動でちょうどすべての陸地が一つに固まったようです。

そのために新しく進化した樹木が大量に陸地に繁茂しました。

それらの樹木はある程度成長するとすぐに倒れて積み重なっていったようです。

その当時はまだ樹木の成分であるリグニンやセルロースを分解できる微生物は存在しませんでした。

そのために多量の木材は何重にも積まれ徐々に地中に埋まっていきました。

この大量の炭素(木材組織も多くの炭素です)や他にも黄鉄鉱などが地中に堆積することにより、大気中の酸素濃度は上がり続けました。

この高濃度酸素のために陸上の生物は巨大化しました。

数メートルにもなる昆虫類が出現したのもこの時期です。

ただし、進化という点では停滞しました。このような生存に有利な条件は進化を必要としません。

 

その後、2億5000万年前の頃に途方もない規模の生物の大量絶滅が起きています。

これをペルム紀絶滅と呼び、大量絶滅の中でも最大規模と考えられています。

この時期に、大気中酸素濃度の急激な下落が起きています。

大量絶滅の原因については諸説あり、小惑星の衝突という説もありますが、今のところその確実な証拠は得られていないようです。

著者の考えでは、石炭紀後期からペルム紀にかけて酸素量の増加を招いた樹木の大量発生ということが、逆にこの時期になり二酸化炭素の大気中濃度の低下を引き起こし、樹木を含めた植物バイオマスの量の急激な現象を招いたのではないかということです。

これにより、大気中に発生される酸素量は激減し、大気中酸素濃度も低下しました。

実にそれは、大気中濃度が30%から15%まで半減するというものでした。

酸素呼吸の生物であればこの低下には耐えられなかっただろうということです。

 

 ペルム紀の次の三畳紀には酸素濃度はまだ低いままですが、生物のほとんどが死滅したあとということで、それを埋める方向性が出て爆発的な進化が起きます。

恐竜の祖先が様々な進化を遂げるのですが、それはあくまでも低酸素を生き抜くための機能を備えた上でのものだということです。

それが、現代の鳥類にも備えられている気嚢システムという効率的な酸素獲得機能だということです。

恐竜にも気嚢があったかどうか、まだ確定はしていないそうですが、著者はこれは鳥類にも受け継がれているものが恐竜時代に低酸素状況を生き延びるためのシステムであったと考えています。

 

恐竜の時代を終わらせた6500万年前の大絶滅はおそらく小惑星の衝突によるものだろうということはほぼ学説も一致してきているようです。

そして、その後徐々に酸素濃度は上昇していき、それが哺乳類の繁栄につながったようです。

 

このように、どうやら動物類の進化というものは地上の酸素濃度の上下というものに深く影響されているというのが著者の主張です。

これは、動物のボティ・プランというものにつながっています。

さらに、この後も酸素濃度は不変ではありえません。

どうやら、地上の大陸の移動でそれは大きく変わるようです。

今から2億年あまり経つと、かつてのように再び大陸は一つにまとまるそうです。その時にまた酸素濃度低下が起きるのかどうか。まあ人類はそこまではもたないでしょうが。

 

恐竜はなぜ鳥に進化したのか―絶滅も進化も酸素濃度が決めた (文春文庫)

恐竜はなぜ鳥に進化したのか―絶滅も進化も酸素濃度が決めた (文春文庫)

 

 原始地球にはほとんどなかった大気中酸素というものが光合成生物の働きで上昇しそれが生物の進化につながったということは知ってはいましたが、その後も大きく変動しそれが動物の進化に影響を及ぼしたという推測は驚きでした。

まだ学説が固定したとは言えないでしょうが、真実はここに近いかもと思わせられるものでした。

「テレビの日本語」加藤昌男著

かつては日本語の模範とまで思われていたテレビで話される言葉が、最近では乱れていると感じます。

NHKでアナウンサーとして活動し、その後は後進アナウンサーの話し方指導も担当されたという著者が、その推移を語ります。

 

東日本大震災の起きた2011年3月11日、テレビもその番組を完全に切り替え報道一色となりました。

その時にはすでに一線から退いていた著者は、テレビ報道を見ていて非常に気になることがありました。

それは「ご覧いただく」という言葉が連発されたことだそうです。

「ご覧いただいているのは何々港の現在の様子です」「津波が押し寄せた瞬間の画像をご覧いただきましょう」

スタジオにはもう危害は及ばないという感覚が漏れてくるような言葉でした。

 

また、震災後1週間ほど経つと報道だけでなく震災を振り返るドキュメント番組も増えてきたのですが、そこでは冷静な報道の「ですます調」からセンセーショナルで刺激的な「である調」へ変わってきます。

まるで「!」や「!!」を付けたいという気持ちが表れるような体言止めも多用されるようになりました。

そしてその後結局は元通りの賑やかな話し方に戻ってしまいました。

 

テレビなどの放送で使われる言葉は、誰にでも通じるように「共通語」というもので作られます。

また聞く人に不快感を与えることがないように検討されています。

新人のアナウンサーはそういった言葉の使い方というものを念入りに訓練されてから場面に登場することになります。(のはずです)

また、正しいだけでは不十分であり限られた時間内にできるだけ内容を正確に伝えるということが求められており、そのための技術というものも身につけています。(のはずです)

 

しかし、時代の流れによりテレビ放送での話し方も徐々に変わってきました。

話す速度を著者が測定したことがありました。

映像の残っていた1964年の今福祝アナウンサーのニュースを計測すると、字数にして毎分320字だったそうですが、1980年の森本毅郎アナウンサーが401字、1992年の民放の久米宏キャスターは561字だったそうです。

また、トーク番組やバラエティー番組では話す速度が速い上にのべつ幕なしに「間」を取らずにしゃべり続けています。

さらに、言葉と言葉の間には効果音も入れ、常に音が続いている状況です。

 

最初は視覚障害者のために始まった、「字幕」もその目的を変え刺激的な文字が常に使われるようになってしまいました。

映像も字幕もこれ以上に望めないほどに詰め込んだメディアになってしまったようです。

 

テレビの初期には、アナウンサーが一人で原稿を「読む」のがニュースでした。

しかし、その後ニュース番組がワイドショーと変化すると、その主人公も「キャスター」となり、キャスターが「語りかける」形になっていきます。

そもそも、キャスターという言葉は「ニュース」と「ブロードキャスト」を合成した「ニュースキャスター」という言葉からできたものです。

キャスターには高度の「ニュース感覚」が必要であり、放送である限り的確な言葉を使う能力が必要です。

そのため、以前の経歴を見てもアナウンサーだけでなく記者出身者も見られました。

女性キャスターも数々の人々が表れ、躍進していきました。

 

大災害の時の報道はテレビの番組制作側から見ても緊急事態であり、総力をあげての放送が作られますが、ときおり不用意な言葉が使われてしまってひんしゅくを買うということもよくあるようです。

阪神淡路大震災の報道では、ヘリコプターからの中継で「高速道路が ”見事に”倒れています」とか、「煙の上がる神戸の町は ”温泉のようです”」なんとやっていまったこともあったようです。

NHKも現場の職員に注意喚起の必要から、「不適切な表現一覧」を作って配布したそうです。

 

テレビの言葉は日本語の規範であるべきという考え方もあります。

イギリスのBBCではそのような姿勢で言葉を選んでいるそうです。

しかし、日本の現状ではテレビの放送が日本語のお手本だと言えるような番組はありません。

日本語を学ぶ外国人にテレビのあの番組を見ろと言える状況ではありません。

せめてニュースと情報番組はそのような日本語を使ってほしいというのが著者の願いでした。

 

テレビの日本語 (岩波新書)

テレビの日本語 (岩波新書)