爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「高度成長 シリーズ日本近現代史8」武田晴人著

岩波新書から出ている、シリーズ日本近現代史の全10巻の第8巻です。

 

このシリーズは幕末維新からポスト戦後社会という現代までを扱っており、この「高度成長」は戦後の混乱がようやく収まった1955年から、高度成長が石油危機などで終わった1980年頃までを対象としています。

 

著者は歴史学者ではなく、東京大学経済学部教授で、経済史が専門の武田さんということで、やはり歴史というよりは経済の時代だったのかという感想を持ったのですが、あとがきにも書かれているように、武田さん自身もそのつもりで依頼を受けたら経済だけじゃダメと却下され、仕方なく?政治史や社会史も入れて書いたということです。

 

「経済成長」という言葉自体、使われだしたのは1955年あたりだったようです。

戦後の焼け野原からの復興は経済などということを考える余裕もなかったのでしょうが、ようやくこの時期になって国としても経済全体を考えなければならないということに気づきました。

経済成長を議論するためには、国民所得というものを認識しなければなりませんが、国の経済政策担当者がこのようなマクロ経済学に着目しだしたのもこの時期だったようです。

 

ただし、その内容は国民にはまったく理解できず、その後「所得倍増計画」が公表された時も「国民所得」という概念が分からなかったために「賃金が二倍になる」と誤認されたそうです。

 

せっかく著者が入れた政治史・社会史の部分ですが、割愛し経済史のみを見ていきます。

1955年、当時の鳩山一郎内閣は「経済の自立を達成し、年々増加する労働力人口に十分な雇用を生み出す」ことを目標にします。

当初の成長率目標は5%でしたが、それすら高すぎるという批判を受けました。

しかし、戦争特需からの脱却を産業構造の重化学工業化による輸出拡大という方向で成し遂げるという姿勢は一貫していました。

ついで、池田内閣が政策の基本としたのが「国民所得倍増計画」でした。

ここでは鳩山内閣よりさらに高い成長率年7.2%が設定されました。

しかし、当初こそ国民の期待を集めることはできたものの、すぐにその限界が露呈します。

国民所得が増加すれば消費者物価も上がることになります。その他の成長のひずみというものも表れてきます。

産業構造も、以前の繊維産業の安価な製品輸出というものに対する諸外国からの反発が強くなり、その方向での成長は不可能となりました。

そこで出てきたのが石油化学工業への転換でした。

エチレンや合成ゴムなどが急成長し、さらにプラスチック工業が興隆しました。

また、機械工業も自動車や家庭電器が発達しました。

 

その路線も大きな問題をすぐに露呈します。

機械工業では自社ですべてを担う方式は取れず多くの下請け中小企業を抱えることになりました。

しかし、そちらへの十分な支払いができないために中小企業は安定せず雇用者への賃金も低く抑えられました。

また石油化学工業は特に公害という問題を引き起こします。

先行する大きな公害問題(水俣病等)は石油化学ではないものの、各地で大気汚染や水質悪化を起こしました。

 

このような産業構造改革というところから来た経済の高度成長は、あっという間に壁に突き当たります。

貿易の相手国からの反発も強まり、日本経済の外国への開放という問題が出てきます。

考えてみれば当然でしょう。いつまでも保護経済のままの高度成長など許されるはずもありません。

 

さらに、二度の石油危機で原油価格が大きく上昇しました。世界全体の経済構造が変わってきたことになるのですが、そこで日本経済も大きく質を変えなければならなくなりました。

しかし、そこで起きたのが「狂乱物価」という消費者物価の急激な上昇でした。

さらに、そこに相も変わらぬ政治の腐敗「金権政治」というものが露呈します。

政治に対する不信感が強まり、野党側の力が強まるということになります。

 

そして、本書の最後はプラザ合意でまた新たな国際的経済の枠組みができたというところで締めくくられます。

 

本書で書かれている時代は、ちょうど私自身が生まれてから大学を卒業し社会人となったというあたりまでに当たります。

最初の頃は子供で何も分かりませんでしたが、中学高校と成長していった時代は本書後半の混乱した時代と重なります。懐かしさとともに、苦いものも感じてしまいます。

 

高度成長―シリーズ日本近現代史〈8〉 (岩波新書)

高度成長―シリーズ日本近現代史〈8〉 (岩波新書)

 

 このブログの他の項で、日本の経済成長はエネルギー利用の増大と密接に関わる(というか、ただそれだけ)と書いたことがあります。

この詳しい本を読んでもその印象は同様でした。

 

「古代の福岡 アクロス福岡文化誌3」アクロス福岡文化誌編纂委員会編

アクロス福岡とは、1995年に旧福岡県庁の跡地に公民複合で建設された施設で、国際・文化交流を目的としているそうですが、文化事業もやっているそうで、文化誌編纂も3冊目となるようです。

そのためか、実際に執筆された方々の顔ぶれを見ても福岡県庁の文化財保護課や各市町村の教育委員会の所属ということで、地元の歴史的遺物にも非常に詳しいということは想像できます。

 

福岡は古代には文句なしに大陸からの文化流入の最先端の場所であり、今でも多くの遺跡から新たな発見が相次ぐというところです。

邪馬台国の所在地こそ近畿地方と争い、その後の歴史では大和に中央の座を譲りますが、歴史的重要性は非常に大きいところです。

そのような福岡の古代というものを、旧石器時代縄文時代から大和政権下で大宰府が「遠の朝廷」(とおのみかど)と称された時代までを、豊富な写真とともに見せてくれます。

 

まあ、大学の研究者のように独自の理論を打ち出すということもないでしょうから、少し面白みは欠けるかもしれませんが、一応現代の歴史学界の主流派的解釈は見ることができます。

 

氷河期末期には現在の海水面より120mくらいは海面が低下していたと見られます。

現在の対馬海峡はそれよりは深いのですが、陸橋もしくは氷床ができていた可能性はあり、そこを通って人間だけでなく動物も大陸から九州へ移動してきたのかもしれません。

今から2万5千年前の石器が福岡県内でも各種発見されています。

1万3千年前の縄文時代に入ると、温暖化して海水面が上昇し今とほぼおなじ地形になります。

当時の土器なども数多く出土していますが、割合は低いものの朝鮮半島と共通の土器や装飾品も含まれており、この時代にも何らかの交流があったと言えそうです。

 

縄文時代末期には稲作も開始されていたということが、福岡周辺の遺跡から分かります。

佐賀県唐津市の菜畑遺跡からは水田跡と炭化米、木製農具、石器が出土しています。それらは朝鮮南部のものと酷似しているそうです。

当時の遺跡から発掘される人骨を見ても、朝鮮半島南部のものと似ており、渡来してきた人々が稲作を始めたと見られます。

 

魏志倭人伝でも伊都国、奴国の記述がありますが、それぞれ最盛期というものは少し前の時代であり広い範囲に及んでいたことが遺跡の遺物から分かるようです。

三世紀中頃に築かれた、那珂八幡古墳は奴国の首都であったと考えられる那珂にあり、福岡県最古の古墳と考えられています。

奴国の首長のものと考えられますが、当時のヤマト政権との関係も考えられます。

 

邪馬台国に関する部分は、九州歴史資料館館長の西谷正さんが書いていますが、その所在地のみを記すわけではなく、それ以前の諸国の様子と変遷に触れています。

邪馬台国に至る前の時代、北九州のイト・ナといった国々は中国からの影響を受け先進的な体制を構築していました。

中国の冊封体制にも組み込まれており定期的に朝見をしていたようです。

当時はまだ近畿地方には個人墓の大規模な物は見られず、国としての体制が遅れていたようです。

その当時の北部九州系の青銅器は東北地方南部まで到達しておりその広がりは大きいものでした。

邪馬台国がどこにあったにせよ、それを支えたのはイトやナといった北部九州の国であったろうとしています。

 

やはり古代を語るには福岡というところ抜きでは無理でしょう。

 

古代の福岡 (アクロス福岡文化誌)

古代の福岡 (アクロス福岡文化誌)

 

 

「外来種は本当に悪者か?」フレッド・ピアス著

環境保護、自然生態というと人間の手の入らなかった頃の本来の環境に戻すのが当然というのが多くの人の観念であろうと思います。

 

その点について大きな疑問を投げかけたのがこの本で、なんと巻末の解説は自然保護派とも言うべき慶応大学名誉教授の岸由二さんが書いていますが、「現代生態学の核心的なテーマを扱う不思議な本が登場した」と言っています。

岸さんの解説は、続けて「古い生態学の中心概念と思われていた生物群集を重視する生態学全体論哲学に貫かれていた。撹乱されることなく保持された手付かずの生態系は、遷移という歴史法則によって”極相”という完成形に至る」

「その理解からすれば、生態系から離脱した外来種はバランスを喪失する。外来種によって撹乱される生態系も混乱を生じ崩壊することもあるというのが中世的と言える生態系理解であり、その下では守るべき価値のある自然は在来種のみである。」

「しかしビアス外来種がみごとな安定性を示す生態系を作ることを示し、外来種がうまく相互適応する方が普通なのだと書いている」

としています。

 

岸さんは本書のビアスの主張には批判を持っていますが、しかし現状の「手付かずの自然絶対」という中世的自然保護論にも組みしていないということです。

それでは、その問題の書の概略を見ていきます。

 

本書はまず、南大西洋アセンション島の自然について記しています。

アセンション島にはわずかな住民と軍関係者が住むのみで、ほとんどが原始林で覆われているようです。

しかし、これら太古のままの自然のように見えるものは、ほとんどすべてが外来生物だということです。

1836年にビーグル号が寄港した時には、この島はほとんど丸裸でした。その後イギリス軍が守備隊を置き、彼らが持ち込んだ動植物が原始林のように見える自然を再構築してしまったのです。

 

ヨーロッパ人による新大陸の発見という出来事はその後の両大陸の動植物の大規模な交代をもたらしました。

人間の移動に付随したり、気まぐれで持ち込まれた外来種というものには厳しい見方がされても、食料や有用品になる動植物の移動はあまり批判されてはいないようです。

ジャガイモやトウモロコシ、トマトは旧大陸の食料供給に役立ち、アメリカに持ち込まれた家畜は重要でした。ヨーロッパ種の牛にやるにはヨーロッパの牧草がよいということで、牧草までもが持ち込まれました。

アメリカ大陸にはヨーロッパ人がやってくるまではミミズもいなかったそうです。最後の氷河期の氷河の動きが激しすぎて土壌ごと削り取られてしまったのです。

そのため、アメリカの森には落ち葉が厚く積もっていました。それがミミズの繁殖により無くなってしまい、サンショウウオや鳥の一部が絶滅したそうです。

 

新大陸発見後はアメリカもヨーロッパもどちらの自然?も外来種により大きく変化してしまいました。

しかし、ヨーロッパ人が入り込む前のアメリカが自然そのままであったということではありません。

それ以前にアジアから人々が渡ってきた時からすでにそれ以前の自然とは違うものに作り変えられているのです。

 

熱帯のジャングルでも、大洋の中の離れ小島でも、人間の影響のない自然というものは実はほとんど存在していないのです。

 

それを知らずに、ほんのわずか前までの自然があたかも「手付かずの自然」のように思い込み、それ以降に入ってきた「外来種」を目の敵にするいわゆる「自然保護」派が数多く存在しています。

 

イギリスにイタドリが持ち込まれたのは、観賞用としてでした。

日本ではそれほど繁茂するというほどではなかったのですが、イギリスでは対抗する植物が乏しいためか街中に広がっているところもあるようです。

ウェールズ南部のスウォンジーという町は特にイタドリが繁茂していて他の植物が見られないほどだそうです。

しかし、これもどうやらイタドリ自体が問題ではなく、土地の産業(銅鉱山)が衰退し土壌も荒廃してしまったためにそういった土壌に強いイタドリが繁茂しやすくなっただけのようです。

そのイタドリ繁殖を「生態系を損ない、生物多様性を低下させる」として駆除しようとしています。そのための予算が年間300万ドル。

イタドリ自体、それほど有害なものではなく、日本では食用にもしています。なぜそれほどまでに金を掛けてまで駆除しなければならないのか。

「アメリカでは日系人が湯がいて食べる。私達も試してみる価値はありそうだ」としています。

 

外来種駆除のために、生物的防御(いわゆる天敵防除)が実施されることもあります。

しかし、サボテンの一種オプンティア・モナカンタを駆除するためにアルゼンチンマダラメイガを使ったカリブ海の国々ではガが増えすぎてアメリカまで広がってしまいました。

サトウキビの害虫防除にオオヒキガエルを導入したオーストラリアでは、放されたヒキガエルは害虫など見向きもせずに畑から出て他の虫や小動物、はてはクロコダイルまで襲うようになりました。

 

どうも、「外来種の無かった手付かずの自然」などというものはこれまでも存在しなかったようです。

それでもそういった自然を取り戻したいと言って活動している人たちが多くいます。

彼らはいったいどこまで古い時代に戻りたいのでしょうか。

自然保護派の好きなイギリスの湿地帯ができたのは5000年前の初期農業の時代です。それ以前はイギリス全体は氷河に覆われていました。

オランダでは北海を干拓してつくった湿地帯を自然に返すことにしました。つまり堤防を開けて海に戻すということです。

アメリカではバイソン復活の努力が続けられています。しかし単に農場で飼育されているのと同様で、しかも「バイソン・バーガー」が売りというのでは、ただの牧畜業です。

 

自然が破壊されているのは間違いのないことでしょう。しかし、どのような自然に戻すのが良いのかということは、簡単なことではないようです。

 

外来種は本当に悪者か? 新しい野生 THE NEW WILD

外来種は本当に悪者か? 新しい野生 THE NEW WILD

 

 確かに、日本の湖などでブラックバスが放され在来種を食べるという被害があるのは事実でしょうが、ことさらに「外来種」排斥というのも何か疑問を感じていました。

まあ、何でも放っておくということではないのでしょうが、よく考えなければいけないところでしょう。

それにしても、最大の「外来種」であり、最大の「環境破壊者」は間違いなく人類です。なにしろホモ・サピエンスは5万年前にはアフリカ以外にはいなかったのですから。

 

 

「だまし犯罪百科」間川清著

オレオレ詐欺といった特殊詐欺と言われる犯罪の被害は減るどころかいつまでも増え続けているようです。

その被害者のほとんどは高齢者ですが、ニュースなどで被害事例が報道されてもいつもの「母さんオレオレ」だろうくらいの認識であり、実際に現在の最新の劇場型詐欺グループからの電話などがあればひとたまりもなく引っかかってしまうようです。

 

そのように、被害者となりやすい高齢者たちと、犯罪者側の情報量の違いは歴然としたものです。

こういった犯罪被害を少しでも減らしたいという思いで、弁護士の間川さんがこれまでに扱った事例をできるだけ分かりやすいように名前まで入れた物語風に作った読み物としてまとめたものが本書です。

 

なお、オレオレ詐欺などの特殊詐欺ばかりでなく、従来からある伝統的?詐欺から、よく起こりがちな相続をめぐるトラブル、近所のトラブル、金融投資や生命保険など犯罪ではないものも含まれています。

いずれにせよ、そういった犯罪やトラブルの実例というものに疎い高齢者に参考となればということで書かれています。

 

多くの例がのせられていますが、中でも特に気をつけたいものだけ紹介ししておきます。

 

まったく利用した記憶のないネットサイトの利用料金の督促をされたという事例は数多くありますので、Hさんは裁判所からの特別送達の封書もそれだと思い放っておきました。

すると、続いて「仮執行宣言付き支払督促」が送られてきました。

架空請求のほとんどは、裁判上の手続きに見せかけて法律上の効果のない手続きをするのですが、中には本当に正式な手続きをする架空請求もあるそうです。

これには弁護士などに力を借りて異議申し立てをしなければならないということです。

なお、そのような架空請求なのになぜ裁判所が認めるのか?という疑問も湧きますが、裁判所はあくまでも「裁判を始める」ということを通知するだけなので、それが架空請求であっても可能なのだそうです。

 

テレビでよくCMの流れる「誰でも入れる保険」に以前から高血圧で治療していた50歳のMさんは加入しました。

しかしその数年後に高血圧が原因とされる心臓病になり手術をしました。それを保険会社に通知した所、加入時の持病による手術等には保険は支払えないと言われたということです。

「誰でも入れる保険」は「誰にでも支払われる」わけではないということです。

 

このような事例が世の中には溢れているようです。知らなければいつ自分にも降りかからないとも言えません。何事も知識が大切ということでしょう。

ただし、本当にこういった知識の必要な高齢者はこんな本読まないだろうな。

 まあ、高齢者を身内に持つ子供世代が勉強して活かすことでしょう。

だまし犯罪百科 ―巧妙な話術と手口の全貌

だまし犯罪百科 ―巧妙な話術と手口の全貌

 

 

 

 

「日本人はどこから来たのか?」海部陽介著

著者の海部さんは国立科学博物館で人類史を研究していらっしゃいますが、台湾から沖縄へ古代の舟で渡るという実験を企画したということでニュースにもなりました。

その実験も、この本も現生人類がアフリカで生まれそこから世界中へ広がっていった過程を明らかにしたいという思いから為されたものです。

 

「日本人の起源」といった題材は他の本でも数多く論じられていますが、縄文人弥生人の二重構造説などと言ってもやはり日本国内だけか、せいぜい東アジアの事例が研究されているだけのようです。

人類全体の移動の様子を再現するには世界的に遺跡・遺物の検討をする必要があるということでしょう。

 

アフリカで生まれた現生人類ホモ・サピエンスの祖先はその後約10万年ほど前にアフリカを出ました。

その後、徐々に広がって行きその過程であちこちに分散してその環境に適応し、様々な形態の特徴もできていき、それが現在の人種の分布につながっているという印象を持っていました。

しかし、どうやらそのイメージは実際とは大きく異なっているようです。

 

特に欧米の研究者の間で常識のようになっているのが、「海岸移住説」というものです。

ホモ・サピエンスの最初のユーラシア進出はアジア南端の海岸沿いにオーストラリアまで至るというものだったとしています。内陸への進出はそれよりはるかに遅れて起きたということです。

 

しかし、著者が各地の遺跡の年代のはっきりしているものを精査した所、まったく異なる様相が見えてきました。

それらの遺跡の年代はほとんどが4万8000年から4万5000年前までに含まれており、徐々に広まったような跡も見られなければ、それに先行して海岸沿いに広がったということも無いようなのです。

つまり、ホモ・サピエンスは4万8000年前まではほとんどがシナイ半島付近に居て、その後3000年くらいの間にアジア大陸の南ルート、北ルート、そしてヨーロッパへの拡散が同時に起こっているようなのです。

そして、オーストラリアへの到達もほぼ同時期、東アジアへの到達はやや遅れるようですが、シベリア方面の寒冷地へも達していました。

 

日本列島を見れば、その遺跡の年代の確実なものを整理すると3万8000年前より以前には人類遺跡は見当たらず、その時期に突如爆発的に現れるようです。

つまり、その前の時期までに日本列島への入り口まで達していた人類が一挙に列島に渡って来たと見られるのです。

その時期はまだかなり寒冷な気候であったために、海面も現在よりは相当下がっていました。

それでも対馬海峡は今よりはかなり狭いものの確実に存在しており、台湾から沖縄の間には100kmに及ぶ海面が隔てていました。

 

つまり、その時期の人類はすでに航海術を持っていたということです。

対馬海峡ではただ一度渡ってきただけではなく、何度も往復していることが遺物からも推測できるそうです。

 

3ルートそれぞれから渡ってきた人々は、遺伝的にはすでにかなり隔たった人々でした。

しかし、彼らはもともとのスタート時には近い関係だったわけです。それがヒマラヤの北と南に分かれて東進したためにかなり異なる形態となっていました。それが約1万年の後に東アジアで再び巡り合ったとも言えます。

そしてそこで混血も進みました。

 

対馬ルートから入ってきた人々は縄文時代まで続いていると考えられます。つまり縄文人と言われているのはその人々だということです。

その後、弥生時代にかけて大陸からさらに渡来した人々が多く、その人々も日本人の祖先となりました。

これらの歴史をまとめた文が本書最後に掲げられています。

 

かつてアジア南北のルートを別々にたどり、それぞれ違う困難をくぐり抜けてきた兄弟姉妹が、再会を遂げた舞台の1つ。それが後期旧石器時代の日本列島であった。ただし、西アジアで別れてから既に1万年の時が経過しており、再会した彼ら自身は、互いが血を分けた兄弟姉妹であることに気づきようがなかった。

その後、大陸からの新たな渡来民や列島内での移住を経て当初の集団構造は変化していった。それでも偉大な旅を続けてきた旧石器時代の祖先たちの血は今もこの列島の私達の中に様々な形で継承されている。

こういった見方というものが大事なものと感じます。

 

日本人はどこから来たのか?

日本人はどこから来たのか?

 

 

 

「権力に抗った薩摩人 薩摩藩政時代の真宗弾圧とかくれ念佛」芳即正著

著者のお名前は「かんばし・のりまさ」と読みます。

鹿児島県の高校校長や短大教授などを歴任、尚古集成館の館長も勤められました。

 

江戸時代にキリスト教を禁制とし、そのため「隠れ切支丹」という人たちが居たということはよく知られていることですが、島津藩の薩摩ではキリスト教以外にも浄土真宗も厳しく弾圧されていました。

そのために、「かくれ念佛」といった人々が生まれました。

 

家の中に仏像を置きそこで念仏を唱えていると、土地の役人に知られてしまうかもしれません。

そのため、お墓参りをして墓地で念仏を唱えるということが多かったそうです。

他の土地と比べてお墓参りに出かけるということが異常に多くなりました。

また、お墓参りの際に持参するということで、切り花の販売額も全国的に見てもかなり多く日本一だそうです。

 

 

薩摩藩真宗一向宗)を禁止した時期やその理由というものは、諸説あってはっきりしていないそうです。

いつからともなく始まったものの、厳しく取り締まったということははっきりしているようで、数々の記録には残っています。

 

禁制の始まりとしての説の中で大きなところでは、伊集院幸侃事件というものがあったそうです。

伊集院幸侃(忠棟)は島津の一族でしたが、本家に反抗したということで島津家久に手打ちにされました。江戸時代初期のことです。

忠棟は豊臣秀吉九州征伐の際、秀吉に内通して島津の降伏を推進しました。その恩賞として大隅を領地として貰ったのですが、秀吉死後に本家に殺されました。

この忠棟が真宗信者だったということです。

 

また、秀吉侵攻の際に鹿児島県出水郡真宗信者が秀吉に寝返り、それが島津降伏の理由となったので真宗信者の排斥につながったということも信じられています。

 

1597年に島津義弘真宗を禁制としたということは事実のようで記録が残っています。ただし、その文書の中で義弘は「先祖以来の禁制の儀」と書いており、自分が始めたのではなく祖父の島津忠良が始めたとしています。

 

しかし、やはり秀吉の島津征伐の際に真宗信者が裏切り秀吉に内通したということが、その後の真宗禁制につながったのではと著者は見ています。

 

その後、真宗信者の摘発は非常に厳しく行われ、死刑や遠島などに処されたという記録は多数残っており、多くは地方在住の郷士や百姓であったようです。

幕末の天保時代に大掛かりな摘発が行われた時には、信徒14万人が罰せられたという記録がありますが、その時代の薩摩藩総人口が80万人程度の頃ですから、非常に多くの人々が隠れ真宗信者であったということです。

 

彼らは一人一人がばらばらに真宗を信じていたのではなく、潜伏組織を作っていました。

これは隠れ切支丹と同様のもので、信者を指導し組織する系統ができており地域の中に根強く残っていったものでした。

 

明治になり、真宗禁止の規制はなくなりました。

それと同時期に廃仏毀釈というものが全国的に行われたのですが、鹿児島県ではそれが徹底的であったことが知られています。

真宗信者たちはそもそも江戸時代には寺を持っていませんでした。鹿児島に存在した寺院はすべて他宗のものでしたので、真宗信者たちはそれらを破壊することに何の反対もせずに喜んで行なったからのようです。

 

鹿児島では今でも封建的な風土と言われていますが、その中で島津藩のお上の禁制に激しく抵抗したのも民衆であるというのは特記すべきというのが著者のまとめでした。

 

権力に抗った薩摩人 (南方ブックレット1)

権力に抗った薩摩人 (南方ブックレット1)

 

 

 

 

「ゲノム革命 -ヒト起源の真実-」ユージン・E・ハリス著

著者は化石の形態観察という方法で進化をたどるという分野から研究を始めたものの、遺伝子解析による霊長類起源探求という方向に転換しその草分けの一人となったという研究者です。

その最先端の研究者が一般向けにゲノム解析による霊長類進化の過程の解明状況を解説するという、日本ではなかなか見られないような本になっています。

 

系統樹」というものが様々な生物種について作られています。

ヒトはどうなっているかと言えば、キツネザルやメガネザルははるか昔に分離し、比較的新しい時代にチンパンジーやゴリラと分かれたということになっています。

 

しかし、チンパンジーとゴリラとどちらがヒトと近縁なのか(分かれた時期が新しいか)ということは諸説がありなかなか定まっていませんでした。

 

著者が学生であった1990年代、まだ化石などから解剖学的特徴を調べて比較する方が主流で、遺伝学は始まってはいたもののまだ正確なことは何も言えない状況でした。

その後、DNAの研究は爆発的に進歩していきます。

最初はミトコンドリアDNAの比較といったところからスタートします。

しかし、ミトコンドリアは母子伝達しかしないといった欠点もありなかなか使いづらいものでした。

さらにDNA-DNAハイブリダイゼーションといった手法も使われますが、遺伝的な意味が問われるわけではなく、核心に到達するには至りません。

 

しかし、遺伝子のすべてを解析するという手法が可能となると、DNAの中で遺伝子として意味のある部分を比較するということもできるようになります。

これで、近縁の生物種の比較ということも簡単にできるようになると期待されたようです。

 

具体的には、現在の生物種どうしの間でのDNAの差異というものは、その種が分離したあとに起きた遺伝子変異によるものであり、それがどこに見られるかということを調べればその時期も推定できるという考え方です。

しかし、変異が何度も起きていることは分かってもその順序が特定できないということが多数あったようです。

その結果、遺伝子の解析から作られた「遺伝子系統樹」というものは、本来の「種系統樹」というものとは同じではなく、様々な「遺伝子系統樹」ができる可能性があり、それをすべて合わせてようやく「種系統樹」に到達できるようなものであるということが分かってきました。

そして、遺伝子系統樹の不一致の仕組みというものが明らかになってきたことから、それらを使って最適モデルを推定するという方法論も開発されてきました。

ただし、それらもまだまだ研究発展段階だそうです。

 

ヒトだけでなく、ボノボやオランウータンなども完全なゲノム配列の決定がなされています。

ヒトゲノムとこれらの動物のゲノムがどの程度似ているかということを調べる研究もなされていますが、ヒトゲノムの3%はチンパンジーよりははるか昔に分かれたボノボに近いそうです。

さらに、ヒトゲノムの1%は1300万年前に分かれたオランウータンに近いものでした。

 

進化の過程でこのような集団がどうやって独立してきたかを考える際に考慮すべきなのが、その生物集団がどのくらいの大きさかということです。

これはその時の総人口ではなく、「生殖に関わることができた個体数」を用いるのが普通であり、それを「有効個体数」と言います。

この数値は現在の世界人口からすると驚くべきものですが、わずか約1万であるということです。

これは他の生物種と比べても非常に小さいものであり、ヒトとチンパンジーの共通祖先は数万から十万程度と見積もられるそうです。

 

こういった過去の人口の推定は、現在生きている人間のDNAの差異の程度を測るということで行われます。

世界中のヒトのDNA差異というものを調べてもそれほど多くないということです。

つまり、歴史上の極めて近い過去に相当少ない状態になったということのようです。

特に、ミトコンドリアの多様性がきわめて小さい。すなわち限られた女性からすべての現代の人類は由来するということです。

 

このような、有効個体数が小さいということの現れとしては病気に対する罹りやすさというものが皆共通というところにも表れてきます。

ヒトに多い病気のアルツハイマー、リウマチ性関節炎、子宮内膜症心筋梗塞HIV感染、上皮癌というものは、チンパンジーはほとんど罹らないそうです。ヒトというのはこういった病気に罹りやすいという遺伝子がすべてに蔓延してしまったようです。

 

このような、ゲノム解析と進化の研究というものは非常に急速な進歩を遂げてきましたが、まだまだやるべきことは無数に残っているようです。

ただし、いろいろな情報が得られたとしてもそれは一面からの見方であり、遺伝子だけからみても様々な方面からの解釈が可能であり簡単に言えるものではないようです。

 

ネアンデルタール人やデニソワ人など、「消えてしまったいとこたち」のエピソードも興味深いものでした。

ネアンデルタール人などの化石からのDNAの抽出と分析ということもかなり行われてくるようになりました。

そのDNA配列を調べていくと、現在のヨーロッパ人とアジア人には5%、10%といった程度のネアンデルタール人由来のDNAが含まれているそうです。

これは、ネアンデルタール人との交雑がいずれかの場所・時代に行われたことを示しています。

ただし、アフリカ人にはこれが含まれていない。すなわち、ヨーロッパ人とアジア人の共通祖先がアフリカを出た後、いずれかの場所で交雑したということのようです。

 

非常に興味深く、しかも最新に近い研究業績の紹介でした。

しかし、「一般人の誰にでも分かりやすく」というのは少し無理かな。

 

ゲノム革命―ヒト起源の真実―

ゲノム革命―ヒト起源の真実―