爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「禅の教室 坐禅でつかむ仏教の真髄」藤田一照、伊藤比呂美著

曹洞宗僧侶ですが、その経歴はいろいろとあったという藤田さんが、詩人でありながら最近は仏教関係の書籍も多数出版されている(ただし、坐禅には挑戦はしたものの上手く行ったことがない)伊藤さんと、坐禅仏教そのものについて対談したという、会話記録のようなものです。

 

伊藤さんは仏教関係の書物を書かれているとはいえ、仏教というものを詩人らしく言葉で理解しようとしてきました。それを坐禅という言葉以外のもので伝えようとする手段によって理解させてきた藤田さんが対決?しどのようなことになったのか、結論ははっきり出ているわけではないので、その対話の課程を楽しもうという本になっています。

 

そもそも仏教とは、禅とはといったところから話が始まるのは已むを得ないでしょう。

もうほとんどすべての読者たちもそういった知識は持っていないでしょうから。

 

仏教とは、ゴータマ・シッダールタがああしてこうして、ということろから始まり、さらに禅というものがどこからどうなって、というのが基本知識のところです。

 

 続いて、伊藤さんはこれまでも何度か坐禅をする機会があったものの、何か上手く行かないという体験をして来られたのですが、それがなぜか、どうすればよいのかといった話を藤田さんが誘導していくこととなります。

藤田さんも長い修行時代を経ているわけですが、坐禅のやり方、教え方も指導者によってかなり変わるそうです。

しかし、あくまでもやらされるのではなく自発的に禅に取り組むということが大切なようです。

 

坐禅は決して苦行ではなく、楽しいと思えるものでなければならないというのは、体験者から聞かないとわからないものでしょう。

 

坐禅というもののイメージを変えてくれた本だったかもしれません。

 

禅の教室 坐禅でつかむ仏教の真髄 (中公新書)
 

 

「家族と格差の戦後史 1960年代日本のリアリティ」橋本健二編著

昭和30年代を扱った映画や本、写真集などが流行っているようです。

もちろん、その最大の要因は映画「ALWAYS三丁目の夕日」の大ヒットでした。

その雰囲気が誰にも懐かしさを呼び起こすものでしたが、しかしその内容は誰にも知られることはありません。

つまり、メイン舞台の「鈴木オート」の年収はいくらだったのか、集団就職で勤めだした六子の給料はいくらだったのか、故郷の青森の親や兄弟はなにをしていたのか、等々の詳細は闇の中です。

 

こういった事柄は政府の「国勢調査」「労働力調査」である程度は知ることができます。

しかし、こういった調査には限界が多く、これらの統計は基本的には個人単位集計であるために家族の就業構造といったことはわかりません。

 

こうしたテーマについて、社会学者のグループが1955年から5年おきに実施している調査があり、SSM調査(社会階層と移動全国調査)というものでした。

しかし、これにも致命的とも言える欠点があり、1965年調査までは「調査対象が男性だけ」というものだったのです。

これでは現在から見直した時に使い物にならないところだったのですが、1965年の調査原票が奇跡的に残されていました。そこには家族の状況が書き込まれ、女性たちの様子も分かる部分があったそうです。

もちろん、男性主体の調査だったために女性だけの世帯は含まれていないといった点は残っていますが、少しでも情報を引き出そうと、編著者の武蔵大学教授の橋本氏を始めとする社会学研究者たちが解析し直したものがこの本にまとめられています。

 

1965年と言うと、戦後日本社会の曲がり角と言うべき時代でした。

高度経済成長はちょうど折り返し点と言えるところです。

第1次産業から急速に人口が第2次産業に移ってきたのですが、それがこの辺から第3次産業へ流れるようになります。

それまでの自営業セクターと言うべき農業や商工業者から、資本主義セクターの資本家と労働者階級へと変質していきます。

この時代には農家はその戸数は維持したままですが、人数がどんどんと減っています。

跡取り男子以外は労働者として流出していますが、農家自体が無くなることは無かったという、過渡期だったと言えるでしょう。

また、労働環境では1965年の失業率は1.2%と歴史的に見ても一番低かった時代です。

これは完全雇用とも言えますが、実はその多数は劣悪条件で就業する労働者が多く、また自営業者も事実上は失業者と変わらないような潜在的雇用者が蓄積していました。

 

世帯の総収入というものが、平均で年間42万円ほどでしたが、農家世帯ではそれが27万円に過ぎません。

一家総出で働きながらこの金額にしかならず、生活水準は貧困世帯と変わらないものでした。

一方、労働者階級でも収入の多い世帯や、新中間層と言う高収入世帯では、夫が働くのみで妻は専業主婦という家庭形態が普通となり、女性の就業率は非常に低いものでした。

 

農家世帯からはその後続々と都会に流出する次男・三男たちが増えていきます。

しかし、彼らも学歴が低いために高収入の職に就くことがかなわず、中小企業等に雇用されることが多いのでした。そのために、その後の収入も低いままとなり、その後の格差拡大の要因ともなることになります。

また、彼らの低収入のためになかなか結婚しづらいということもあったようです。

 

現代の社会格差の拡大という問題の基になるのは、かつての格差であったのでしょう。

それが当時の資料の精細な解析によって明らかにされるものとなっています。

 

 

家族と格差の戦後史―一九六〇年代日本のリアリティ (青弓社ライブラリー)

家族と格差の戦後史―一九六〇年代日本のリアリティ (青弓社ライブラリー)

 

 

1965年といえば、私は小学校高学年。もう周りの状況もある程度は分かってくる年代でした。

我が家は父がサラリーマン、典型的な新中間階級と言うような家庭で、あまり経済的に苦しいといったところはありませんでしたが、親戚には農家もありその暮らし向きは楽ではなかった様子が感じられました。

決して、懐かしいとだけ言っていられる時代ではなかったという印象は持っています。

「人類とカビの歴史 闘いと共生と」浜田信夫著

著者の浜田さんは大阪市環境科学研究所に長く勤務され、その間住民からのカビなどの相談を数多く受けてきたそうです。

自分でも疑問を持った点など、すぐに実際に実験してみて解答を得るといったことに務められていた様子が、この本の記述からもよくわかります。

 

そこで、これまでの経験からカビと人間の関わりということを、汚染に留まらず利用の点も含めてまとめられています。

 

私も会社在職時には同じような分野に属していましたので、非常に親近感をおぼえる内容になっています。

 

 

本書は、まず最初に「カビとは何か」というお決まりの紹介から始まりますが、その後は「食品とカビ」「住居とカビ」「カビと健康」「カビと人との関わりの変遷」と、人間に生活とカビとの関わりを広く解説されています。

 

食品のカビ検査というものを、著者は業務として20年以上やってきたそうです。

カビ被害の多い食品というと目立つのは菓子類だとか。

羊羹やカステラなど、やや湿った菓子類が多いそうです。またチョコレートは通常はあまりカビが生えないものの、二層構造になっていて中に生チョコがあるといったものはその隙間にカビが入りやすいとか。

 

洗濯機にカビが生えるということはよく知られていますが、それがどのようなカビなのかということはあまり調べられたことがなかったそうです。

著者はそれを研究してみました。

すると、通常の室内に多い「クロカワカビ」という種類のものは少なく、エキソフィリア、スコレコバシディウムといった暗色のカビが多かったそうです。

これらは普通の空気中にはほとんど見られないものです。

これらのカビを、クロカワカビと対比させ生育試験をしたところ、クロカワカビは石鹸を栄養素とした培地には生育したものの、合成洗剤のみを栄養源とした培地には生えませんでした。

一方、スコレコバシティウムは合成洗剤培地によく生育しました。ただし、生育速度はクロカワカビよりかなり遅かったそうです。

 

また、洗濯乾燥機にもカビがよく生えるのですが、毎日乾燥機能を使う場合はかなりカビの生育率は少ないのですが、週1回以下の使用頻度の場合は非常にカビが多かったそうです。

日本では、電気代の節約を考えるためか、あまり乾燥機を使うことがなく、できるだけ天日乾燥を心がけ、雨天続きなどの時にたまに使うという家庭が多いようですが、その使い方では乾燥機内にカビが発生しやすいようです。

 

現在では、エアコンに大量にカビが生えるということは常識となっていますが、昔はそれに気付かれなかったようです。

著者が1992年に調査結果を発表してようやく一般に知られるようになりました。

冷気が結露を呼び、そこにカビが生えやすいということですが、最初はその結果発表にメーカーからさんざん嫌味を言われたそうです。

ただし、エアコン自体にはカビが生えるものの、それ以外の室内はエアコンの作用で乾燥するためにかえってカビの発生が少なくなるそうです。

 

 

浴室にもカビが生えやすいということは常識ですが、そのカビが何を栄養にして生きているのかは知られていないようです。

湯垢や石鹸カスといったものがカビの栄養になるように思う人も多いのですが、実際に浴室に多く見られるカビの生育試験をしてみると(こういった実験を数多く実施されているそうです。それもすごい)こういったものはカビの栄養にはならないようです。

 

浴室のカビも、洗濯機のカビと同様に洗剤の成分である界面活性剤を栄養として生育しています。

なお、肌に良いと言われるコラーゲンやハチミツ・オリーブオイルなどの成分を含む高給石鹸のほうが、普通の石鹸よりはるかにカビが生えやすいようです。

 

 

日本の発酵食品では、コウジカビを使う例が非常に多くなっています。酒、味噌醤油など伝統的にコウジカビが使われていますが、各地で調査してみても空気中にコウジカビが見れれることはほとんどありません。

他の青カビ、赤カビ、クロカワカビなどはどこでも多数分離されるのに比べ、コウジカビの少なさは興味を惹かれます。

これは、ごくまれに存在するコウジカビを日本人が選び出して利用していった歴史から来ていることです。

糖類の多い環境にしか存在しないコウジカビの中から、麹として使えるカビを選び出し育てていった日本の発酵産業の力だそうです。

 

いや、カビというのは本当に面白いものですね。

 

人類とカビの歴史 闘いと共生と (朝日選書)

人類とカビの歴史 闘いと共生と (朝日選書)

 

 

「アジアのなかの琉球王国」高良倉吉著

かつての琉球王国はアジア各地との交易を行ない栄えていたというイメージがありますが、その具体的な中味についてはほとんど知りませんでした。

 

この本はその中国の明王朝への進貢を通して交易国家の繁栄を手に入れた歴史とその実態を詳細に語っています。

そして、それが終わりを告げたのも薩摩による支配を受けたからというよりは、アジア全体の貿易の構造が変わったためであったということも知ることができました。

 

 

1372年、新たに中国を統一した明王朝から、琉球の中部にあった中山国に使節が訪れます。

その団長は楊載といい、中山国王察度(さっと)に対し明の洪武帝からの言葉を伝えました。

それは、元の支配を退け新たに中国を統一した明へ入貢を勧めるというものでした。

それに対し、察度王は使者を派遣して入貢することとしました。

 

これを持って、明と琉球とは冊封関係を結び進貢をする(定期的に頁物を捧げ、その代わりに大量の下賜品を受け取る)ような公的な関係を結ぶようになるわけです。

それ以前にも私的な貿易船が琉球を経由し日本から中国まで行き来することはあっても、進貢貿易のような大掛かりで公的なものではありませんでした。

そうして、アジアの交易国家としての繁栄の基が築かれるわけです。

 

その後、中山国に代わって山南の系統の尚氏が琉球を統一したのですが、明に対しては琉球中山の名称のまま冊封体制に加わりました。

そしてそれが琉球の中継貿易による繁栄の時代を作り出していった体制となるわけです。

 

明帝国は基本的には自由な貿易を許さない海禁の国でした。

そして周辺の国とは冊封体制と進貢とで結びついていました。

冊封体制とは、周辺国が代替わりの度にそれを明に認めてもらうことで権威を得ること。そして進貢は数年に一度、明に頁物を捧げそれに数倍の下賜物を貰うことでした。

 

進貢の際は入港できる港が決まっており、琉球福建省泉州(その後福州)のみと決められていました。

進貢船はその港に留められ、琉球王の使節のみはそこから数千kmの道を北京に向かうのですが、その船には進貢物以外の商品も多数積まれており、残された船員たちは使節が帰ってくるまでの間にその品物の取引を行なっていたようです。

 

進貢の頻度は明により厳しく決められており、日本は10年に1度、安南やジャワは3年に1度でしたが、琉球は2年に1度(初期は毎年)と極めて優遇されていました。

明代の270年間に、琉球からの進貢回数は171回と、2位以下を大きく引き離しての1位でした。

さらに、明の海禁政策のために中国商人が直接商売に出かけることが制限されていたため、進貢を絡めての東南アジア貿易の主体を琉球が握ることとなりました。

 

中国商人も表に出ることはできなかったものの、琉球の影に隠れての活動をしていました。これが、琉球で言うところの「久米村人」でした。那覇近くの久米村に主に福建からの中国人が多数居住し、商業や造船・航海などに携わりました。

 

このような琉球の海外貿易も16世紀に入ると陰りが見え始めました。

朝鮮ルートの交易は日本の商人に奪われました。

さらにポルトガルがマラッカを占領し、その影響が強くなりました。

また、中国自体の変化も大きく、海禁政策を取っていた明帝国が国力を急激に落とし、その統制が取れなくなりました。

そのため、中国商人が大手を振って直接交易に出向くことができるようになりました。

こうして、琉球の中継貿易の役割は低下したところに、さらに薩摩軍の侵攻ということが起こり、琉球の地位は急落してしまいました。

 

なお、薩摩の侵攻があまりにも簡単に成功したのは、琉球が武器を持たなかったからだという説が広く信じられていますが、実際は国防の軍備は持っていたようです。しかしその訓練もされずほとんど軍事力は持ち合わせていなかったので敗れたそうです。

 

この本の基にもなった「歴代宝案」という、当時の記録は琉球王国で2部作られ、首里城と久米村に保管されていたそうです。

しかし、首里城のものは日本が併合した際に東京に持ち去られました。そしてそれは関東大震災で焼失、久米村のものも沖縄戦で失われました。

それで全く無くなってしまうところだったのが、台湾や中国に写しが存在することが明らかになり、ようやくその内容を知ることができたそうです。

 

そこにも琉球が中国と日本との間の架け橋のような存在であったということが分かるのでしょう。

 

アジアのなかの琉球王国 (歴史文化ライブラリー)

アジアのなかの琉球王国 (歴史文化ライブラリー)

 

 

「内田樹の大市民講座」内田樹著

内田さんの著書は前に読んだことがありますが、なかなか筋の通った思想家という雰囲気です。

sohujojo.hatenablog.com

この本は内田さんが「AERA」に6年半にわたって月2回連載していた「900字コラム」をテーマごとに並べ替えてまとめたものです。

 

あとがきにも書かれていますが、「900字」という文章は簡単に書いて終わりというものではなく、「いささかの工夫がいる」とのことです。

ワンテーマを取り出してそれに寸評をつけただけでは字数が余る。しかし主題を論じて複雑な思弁を弄するには字数が足りない。という程度だそうです。

そこでどうするかと言えば、冒頭にあるテーマを提示して、「今日はこんな話をします」と出したら読者が「じゃあこうなるかな」と思った方向には絶対に書かないことだそうです。

 

まあそのテクニックはともかくとして、政治経済から教育、国際関係等々いろいろな方面に興味深い話を一味ぴりっと効かせて語るという、短文ながらなかなか手の込んだ、味わいのあるものとなっています。

 

そのような文章や構成の手練手管は実際にこの本に触れてもらわなければわかりませんが、内容で興味惹かれたところだけを抄録しておきます。

 

成果主義能力主義のブームがようやく終わったようだが、「眼の前の成果に対して即金で報酬を与える」というモデルに基いているので、「待つ」ことができない。

それに対し終身雇用・年功序列の美点は「育つまで時間がかかる人」を放し飼いにしておけることである。ただし、さっぱり仕事のできない若者が「ただの無駄飯食い」か「大器晩成」かは長い時間が経たないと分からない。

 

上手いですね。ワクワクするほど。

 

☆某出版社から雑誌のコンセプトについて相談を受けた。「どういった読者をターゲットにすればよいか」というから「それがいけないんじゃないの」と答えた。

ターゲットを細分化しそれに合わせようとすると読者の集団の消長に左右されるだけだ。

 

ごもっとも。なんですが。

 

原水禁世界大会でオリバー・ストーンが日本の戦後政治をきびしく批判するスピーチを行なった。しかし日本のマスメディアはこのことをまったく黙殺した。

トーンは「日本は戦後すばらしい映画・音楽・食文化を示したが、ただ一人の政治家も総理大臣も平和と道徳的な正しさを代表したところを見たところがない」と語り、さらに「日本はアメリカの衛星国であり従属国に他なりません。あなたがたは何のためにも戦っていない」を続けた。

 

☆世界的に格差拡大と若者の雇用悪化が続いている。世界中で同じ抗議運動が広がっているということは、全世界的に同様の社会状況が生じていることを示している。

にも関わらず、日本の政治家や財界・メディアは「さらなるグローバル化」と唱えるばかりである。

しかし、この20年の状況を見てみればグローバリストたちが「ここに資源を集中せよ」と強調する「ここ」とは「彼ら自身のところ」に他ならないということだ。

 

内田樹の大市民講座

内田樹の大市民講座

 

 短文ながらきれいに論点をまとめ、さらに読者にちょっとした驚きを示すという、非常に高度な芸を見せてくれました。

 

「ノーベル経済学賞 天才たちから専門家たちへ」根井雅弘編著

ノーベル賞は毎年10月になると話題になりますが、その中に「ノーベル経済学賞」というものがあるのが、何か異質な感じがしていました。

 

実は、ノーベル経済学賞と一般に呼ばれているものは、正式には「アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞」というもので、1968年にスウェーデン国立銀行が創立300年を迎えた時にノーベル財団に働きかけて作ったものです。

その選考に他のノーベル賞と同じように、スウェーデン王立科学アカデミーが当たっているためにノーベル経済学賞というもののように思われがちですが、あくまでもノーベル記念賞であるということです。

 

ノーベル経済学賞(こっちの名称の方が使いやすいので)はその創設当初にはすでに経済学界にはサミュエルソンやヒックスといった超大物が揃っており、その誰から授ければ良いのかという順番だけの問題と言われていたそうですが、その後は大物には行き渡り各部門の専門家と言われる人たち(他の部門からは誰だかよくわからない)に広がっていきつつあるようです。

 

そういった、ノーベル経済学賞の受賞者の紹介を、京都大学大学院経済研究科教授の根井さんが中心となり、その後輩や教え子といった京大経済出身者の人たちが書いているのがこの本です。

 

第1期とも言える、1969年から1979年は現代の経済学の基礎を作ったパイオニアたちです。

サミュエルソンやヒッグス、ハイエクフリードマンなど、私のような経済学音痴のものにも聞いたことがあるような人々が次々と受賞しました。

 

第2期の1980年代は、実際の政治で新自由主義が採用され力を発揮する時代でもあり、ノーベル経済学賞もそれを反映させるものとなっています。

ただし、自由市場主義者だけが選ばれたわけではなく、ケインジアンバランスよく授賞させるという、ノーベル賞委員会らしい気配りの選考となっています。

また、すべての国際金融取引に定率の税を課すという「トービン税」提唱者のトービンもこの時期に受賞しています。

 

1990年代の第3期となると、これまでの経済学の枠組みには入らないような人々の受賞も続くようになります。

金融工学を扱った、マーコウィッツやシャープ、ミラー、ゲーム理論のコース、ノース、フォーゲルといった人たちの受賞には、経済学者からの批判もあったようです。

 

2000年代以降は、誰もが認めるような経済学界の巨匠という人々の受賞が一段落し?、それ以外の専門分野の功労者の受賞に移行します。したがって、ちょっと違う分野の人々からは名前も知らないといった批判が起きることも出てきます。

ただし、こういった状況は他の自然科学系のノーベル賞では最初から起きている事態でありそれほど変なわけではありません。

1995年には王立科学アカデミーがノーベル経済学賞の受賞対象分野を経済学に限らないという方針公表をしていますので、それに沿ったものであるといえます。

ただし、現在でも歴史学政治学は受賞対象とはなっていませんので、すべての社会科学とはなっていないようです。

 

これまでのところ、あまりにも左翼的な経済学者は除かれていると言われていますが、しかし経済学全体を広範囲に見た中から選ばれているとは言えるようです。

現代の経済学というものを見ていくにはノーベル賞受賞者を調べるのはある程度有効な手段と言えそうです。

 

ノーベル経済学賞 天才たちから専門家たちへ (講談社選書メチエ)

ノーベル経済学賞 天才たちから専門家たちへ (講談社選書メチエ)

 

 

「分類思考の世界」三中信宏著

ここで言う「分類」とは生物種の分類のことを指します。

 

私もかつての会社勤め時代の研究所在籍時には、微生物の分類同定ということをやっていたということがあり、生物の種の分類というものがどういう状況になっているかということには興味があるのでこの本を読んでみました。

 

しかし、そのような私でもこの本の内容は非常に難しいものでした。

まず、「生物種」というものは何か、それは一群をなしているものかどうか、生物種というものは生物進化の過程で変わっていくものなのか、変わったとしたらどこまでが群か等々、哲学的な表現が次々と連続して出現し、すっかり頭が混乱してしまいました。

 

生物の近代の分類学ギリシャローマ時代にも分類学はありました)の父と呼ばれるのは、18世紀スウェーデンの植物学者、カール・フォン・リンネです。

リンネの定めた生物の群分けはいまだに基本的には踏襲されており、学名の命名法もリンネの定めた方法によっています。

 

分類学者はまた「博物学者」とも呼ばれました。かつては新発見の植物や動物を蒐集し、分類するということで、多くの人材を集めていたのですが、最近では分類学ということを目指す科学者は極めて稀になりました。

かつて、1990年代に著者は日本学術会議の下部委員会で分類学に関係する研究者のリストを作ったことがあるそうですが、その時点ですでにほとんど存在せず、分類学者自体が「絶滅危惧種」であったそうです。

 

 

生物を分類していこうという、分類学でもっとも大きな問題は、対象物のグループが何を表しているかという疑問だそうです。

アメリカの進化学者エルンスト・マイアは1942年に出版した本の中で、「生物進化の基本単位は生殖的に隔離された生物集団」であると定義しました。

すなわち、有性生殖によって血縁的に結びついた一群が生物学的種であるということです。

 

しかし、この定義に対して無数の反論が続出しました。当然ながら無性生殖をする生物にはこの定義は役立たず、そういった多数の生物はどうするかということも触れていません。

そのため、無性生殖生物を研究対象とする研究者たちは別の種概念を提唱することになります。

現在まで20以上の種概念が知られているそうです。

 

しかし、ここでも本質を問い直す議論がまた姿を表します。「種というものは本当にあるのだろうか」

 

生物というものはどんどん変化していきます。「私」という生物すら、昨日の私と今日の私は同一ではありません。ましてや、「私」と「私の子」は同一の生物ではありません。ただし、普通にはそれは「同種」ではあると認識されます。

本当にそうでしょうか。生殖と発生の過程では常に変異がつきものです。だからこそ進化もするのですが、変異しても同種と言えるのでしょうか。

 

しかし、「進化するものが種である」という説も紹介されます。

ここまで行くと頭がついていきません。

 

本書の議論はさらに続いていきますが、どうもさらに深みにはまるばかりのようです。

 

分類思考の世界 (講談社現代新書)

分類思考の世界 (講談社現代新書)