爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

夢の話「不思議な居酒屋」

目を覚ました時に、自分でも恥ずかしくなるような夢はいくら自分のブログでも書くのをためらいますが、なんでこの夢をみたのかと不思議に思うような場合はそれを吐き出してしまいたいと思うものです。

 

今日目が覚めるまで見ていた夢もそういったものでした。

 

最近はほとんど外に酒を飲みに行くという機会も少なくなり、年に数回という程度ですが、さすがにかつての現役時代には時々は出かけたものでした。

一緒に行った連中の行きつけの居酒屋というところに入ることも多く、そこで知り合いが簡単な店の手伝いなどをやる光景というものもよくあることでした。

 

夢の中では、そういった店に飲みに行きました。

その店には不思議な大きな掛け時計があり、振り子が揺れています。

そして、その振り子の運動でエネルギーがたまっていきます。

(エネルギー保存則に逆らっていますよ。夢の中では永久機関信奉者なのかも)

 

そして、その掛け時計の蓋を開けると、何かのレベル計と押しボタンがついています。

 

飲んでいくにしたがって、そのレベルがだんだんと下がっていきます。

実はそのレベルは焼酎タンクの残量を示していたのでした。

そこで店のおやじから「減ったんだったらボタン押して補充しておいて」と言われてボタンを押しました。

 

さらに、掛け時計の振り子が何かに絡まって動かなくなります。

それを直そうとして振り子をはずし掛けなおしますが、構造が分からなくなりできなくなりました。

振り子を手で動かして、あなたは眠くなると唱えていると目が覚めたという、落ちまでついた夢の話でした。

 

いやー、何かすがすがしささえ感じさせるほど不可解な夢でした。

温暖化ゆめゆめ疑うことなかれ 気象予報士がご託宣

毎日新聞で時々書いておられる気象予報士の千葉ゆり子さんが、今の「大寒波」について「裏話」を。

https://mainichi.jp/articles/20180202/ddm/013/040/021000c

 

(見づらいサイトですから長めに本文を引用します。)

 

これが記録的な寒さであるということは(渋々とかもしれませんが)認めているようです。

しかし、マスコミが「これは半世紀ぶりの寒さ」等々とセンセーショナルに書いているのは少し違うと思っているようです。

 さらにこの寒さが「約半世紀ぶりの記録」となったのは、観測所の移転も関係していると考えられます。2014年12月に東京の観測所はオフィス街の大手町から皇居に隣接する北の丸公園に移転しました。公園の中に移ったことで、以前よりもヒートアイランド減少の影響を受けにくくなりました。移転によって寒さの記録が出やすくなっている可能性があるのです。

つまり、この寒さというものは「ヒートアイランド現象から逃れただけで、基本的には温暖化が進行している」と言いたいのでしょう。

さらに、こうも

私は高校時代、「マスコミの報道をうのみにせず、何事も疑い、自分で調べて考える癖をつけるように」と教育されました。「記録的寒さ」もまさに同じです。報道で真実を十分に伝えきれているかは定かではありません。いわんやインターネット上の情報をやです。

情報を単に受け取るのではなく、情報の真偽を自ら判断する姿勢を養うことが大切だと思います。

まことに、ご立派な心構えであることには驚きますが、彼女の「裏話」として取り上げた観測所の移転と言う問題には重大なことが含まれていることには気がついていないのでしょう。

 

それは、「これまでの温暖化現象というものがヒートアイランド現象によって影響された観測結果に基づいたものかもしれない」ということです。

ほんのわずかな気温の上昇を二酸化炭素温暖化に結びつけるという離れ業をするために、観測結果を色々と操作していることもあるようです。

やっぱり寒くなっているんだというのは、今これを書いている家の中でもひしひしと感じられます。もう手がかじかんでキーが打ちにくくなってきました。昼の11時でもこの寒さです。

 

さらにこの寒さが「約半世紀ぶりの記録」となったのは、観測所の移転も関係していると考えられます。2014年12月に東京の観測所はオフィス街の大手町から皇居に隣接する北の丸公園に移転しました。公園の中に移ったことで、以前よりもヒートアイランド現象の影響を受けにくくなりました。移転によって寒さの記録が出やすくなっている可能性があるのです。

 記録的寒さと一口に言っても原因はたくさんあり、中にはここでいう観測所の移転のような、テレビの短いニュースの中では伝えにくい事情も存在しています。私は専門家なのでそのあたりの事情までわかるのですが、一般の方は、そのような事情は知らないまま単純に「記録的寒さ」という情報だけを受け取ることになります。

寒波の出口が見えません。東京では23センチの積雪を記録、その3日後には氷点下4度まで気温が下がり、48年ぶりの寒さになりました。

 この記録的寒さは、いくつかの条件が重なった結果です。まずは過去最強ともいえる強さの寒波が流れ込んでいたこと。毎日地上の気温を測っているように、気象庁は上空の気温も1日2回測っています。寒波について「過去最強」や「今季最強」と表現することがありますが、私たち気象予報士は、予想と過去の実測の上空気温を勘案して言葉を選んでいます。

 次に、よく晴れて放射冷却が強まったこと。また、雪が残っていたことも関係しています。雪は解けたり蒸発したりする時に周囲から熱を奪います。夏に冷凍庫から氷を出しておくと周りが冷えるのと同じです。雪が地面に残っていることで気温が低くなったのです。

寒波の出口が見えません。東京では23センチの積雪を記録、その3日後には氷点下4度まで気温が下がり、48年ぶりの寒さになりました。

 この記録的寒さは、いくつかの条件が重なった結果です。まずは過去最強ともいえる強さの寒波が流れ込んでいたこと。毎日地上の気温を測っているように、気象庁は上空の気温も1日2回測っています。寒波について「過去最強」や「今季最強」と表現することがありますが、私たち気象予報士は、予想と過去の実測の上空気温を勘案して言葉を選んでいます。

 次に、よく晴れて放射冷却が強まったこと。また、雪が残っていたことも関係しています。雪は解けたり蒸発したりする時に周囲から熱を奪います。夏に冷凍庫から氷を出しておくと周りが冷えるのと同じです。雪が地面に残っていることで気温が低くなったのです。

寒波の出口が見えません。東京では23センチの積雪を記録、その3日後には氷点下4度まで気温が下がり、48年ぶりの寒さになりました。

 この記録的寒さは、いくつかの条件が重なった結果です。まずは過去最強ともいえる強さの寒波が流れ込んでいたこと。毎日地上の気温を測っているように、気象庁は上空の気温も1日2回測っています。寒波について「過去最強」や「今季最強」と表現することがありますが、私たち気象予報士は、予想と過去の実測の上空気温を勘案して言葉を選んでいます。

 次に、よく晴れて放射冷却が強まったこと。また、雪が残っていたことも関係しています。雪は解けたり蒸発したりする時に周囲から熱を奪います。夏に冷凍庫から氷を出しておくと周りが冷えるのと同じです。雪が地面に残っていることで気温が低くなったのです。

 

八代城跡を訪ねる その歴史

八代歴史散歩シリーズ今回は八代城です。

八代には南北朝時代から城が築かれ、数々の戦乱に巻き込まれてきました。

現在の城跡は松江にあるため別名を松江城と言いますが、その他に古い方から、古麓城(ふるふもと)、麦島城と3つの城が存在しました。

f:id:sohujojo:20180204141738p:plain

Google Mapより引用して加工)

等高線が無いために少し分かりにくいですが、地図右下の古麓城という書き入れの辺からは山になっています。

その下を流れる球磨川は、現在では麦島の東から2つに別れ北側が前川と呼ばれていますが、かつてはこちらは水が流れずに入江であったようです。

 

それでは略歴を。

1335年 南朝名和長年の息子の名和義高が八代を与えられ、地頭代として内河義真を

    遣わし、内河は球磨川河口部のすぐ上の山麓に古麓城を建てる

1337年 南朝懐良親王が八代に入り名和氏の保護を受ける

1504年 人吉の相良氏が名和氏を降し、古麓城に入り八代を領有する

1581年 薩摩の島津氏が相良氏を降し、八代を領有

1587年 豊臣秀吉九州征伐 八代まで進み島津氏を降す

    小西行長に肥後南部を与える

1588年 小西氏が球磨川河口に麦島城を建設

1600年 小西行長関ヶ原の戦いで斬首、小西氏に代わり肥後には加藤清正が入る

1619年 麦島城が八代地方を襲った地震で倒壊

1622年 北側の松江の地に松江城を建設

    なお、当時の江戸幕府一国一城令では本来は肥後に二つ目の城は許されない

    はずだが、薩摩の島津氏に対する備えとして特例で八代に城を建設することが

    許された

 

九州での政争の焦点として多くの戦いの舞台となってきたようです。

最初は山城としての古麓城が建設され、実際に籠城戦も行われたようです。

秀吉により全国統一がなされると当時既に商業都市として栄えていた平地の球磨川河口部に城が築かれました。

この麦島城は北方の加藤氏への備えとして町の南部に建てられたのですが、地震で崩れたあとの再建の地としてはすでに戦争の防御を考える必要がなくなったために、少し北方の松江が選ばれました。

麦島城の跡は完全に地に埋もれていたために発掘されるまでは場所も不確かでした。

松江城跡は、中心部だけですが現在でも堀と石垣が残っています。

 

「恐竜はなぜ鳥に進化したのか」ピーター・D・ウォード著

ヒマラヤ山脈の頂上付近では酸素が薄くて人間は酸素マスクで吸入しなければ生きていられません。

しかし、そこで上空を見ると渡り鳥が飛び去るのが見えます。

そこは山の上よりもさらに酸素が薄いはずですが、それでも鳥たちは平気で飛行を続けています。

どうやら、鳥類というのは哺乳類より低い酸素濃度に対しての耐性があるようです。

 

地球科学や地質学、古生物学が近年非常に発展してきており、驚くべき事実が明らかになってきています。

現在の地球の大気では、酸素濃度は約21%。これはほとんど変動することもなく一定と考えられています。

しかし、それが地球の過去でも同様であったわけではないようです。

もちろん、原始地球では大気中にはほとんど酸素はなく、光合成生物の働きによって徐々に増加してきたということは間違いないのですが、それがある程度の濃度に達した後にもかなり大きく変動していたようです。

 

動物が爆発的に進化したカンブリア紀に入る前、5億5000万年前には酸素濃度は約20%弱にまで増加していました。

しかし、その後のオルビドス紀には15%程度にまで低下します。

そこから徐々に増加していき、デボン紀の初期4億1000万年前には25%まで達します。

そこから酸素濃度は急落、13%になります。

その後、急上昇し30%以上まで達し、ベルム紀の2億6000万年前が最高となります。

再び急落、15%へ。

ジュラ紀初期の1億9000万年前が最低で12%、そこから徐々に上昇して現在に至る。というのが酸素濃度の変化です。

 

これは実に大変な変化であり、たとえばジュラ紀初期といえば爬虫類や哺乳類の先祖も出現している時代ですが、大気中の酸素濃度が12%といえば現在では高山よりも薄い濃度であり、とても生存できる状態ではありません。

そのような環境で生存していたのが恐竜の祖先であり、その身体の構造は薄い酸素濃度に適したものだったはずです。

 

カンブリア紀爆発、つまり動物の初期の多様化に対応した進化というものが起きた時は、酸素濃度レベルは13%だったのですが、二酸化炭素濃度は現在よりはるかに高く20倍以上の濃度でした。

そのために、温室効果により気温も高かったのですが、そうなると水中に溶解する酸素濃度は低くなるので、海水中の酸素レベルはさらに低かったようです。

ほとんど無酸素状態のところもあるような厳しい条件が海水中の生物の進化をもたらしたというのが著者の主張です。

 

石炭紀と呼ばれる、3億3000万年前から2億6000万年前の頃には酸素濃度が非常に高くなりました。

この時期には大陸の移動でちょうどすべての陸地が一つに固まったようです。

そのために新しく進化した樹木が大量に陸地に繁茂しました。

それらの樹木はある程度成長するとすぐに倒れて積み重なっていったようです。

その当時はまだ樹木の成分であるリグニンやセルロースを分解できる微生物は存在しませんでした。

そのために多量の木材は何重にも積まれ徐々に地中に埋まっていきました。

この大量の炭素(木材組織も多くの炭素です)や他にも黄鉄鉱などが地中に堆積することにより、大気中の酸素濃度は上がり続けました。

この高濃度酸素のために陸上の生物は巨大化しました。

数メートルにもなる昆虫類が出現したのもこの時期です。

ただし、進化という点では停滞しました。このような生存に有利な条件は進化を必要としません。

 

その後、2億5000万年前の頃に途方もない規模の生物の大量絶滅が起きています。

これをペルム紀絶滅と呼び、大量絶滅の中でも最大規模と考えられています。

この時期に、大気中酸素濃度の急激な下落が起きています。

大量絶滅の原因については諸説あり、小惑星の衝突という説もありますが、今のところその確実な証拠は得られていないようです。

著者の考えでは、石炭紀後期からペルム紀にかけて酸素量の増加を招いた樹木の大量発生ということが、逆にこの時期になり二酸化炭素の大気中濃度の低下を引き起こし、樹木を含めた植物バイオマスの量の急激な現象を招いたのではないかということです。

これにより、大気中に発生される酸素量は激減し、大気中酸素濃度も低下しました。

実にそれは、大気中濃度が30%から15%まで半減するというものでした。

酸素呼吸の生物であればこの低下には耐えられなかっただろうということです。

 

 ペルム紀の次の三畳紀には酸素濃度はまだ低いままですが、生物のほとんどが死滅したあとということで、それを埋める方向性が出て爆発的な進化が起きます。

恐竜の祖先が様々な進化を遂げるのですが、それはあくまでも低酸素を生き抜くための機能を備えた上でのものだということです。

それが、現代の鳥類にも備えられている気嚢システムという効率的な酸素獲得機能だということです。

恐竜にも気嚢があったかどうか、まだ確定はしていないそうですが、著者はこれは鳥類にも受け継がれているものが恐竜時代に低酸素状況を生き延びるためのシステムであったと考えています。

 

恐竜の時代を終わらせた6500万年前の大絶滅はおそらく小惑星の衝突によるものだろうということはほぼ学説も一致してきているようです。

そして、その後徐々に酸素濃度は上昇していき、それが哺乳類の繁栄につながったようです。

 

このように、どうやら動物類の進化というものは地上の酸素濃度の上下というものに深く影響されているというのが著者の主張です。

これは、動物のボティ・プランというものにつながっています。

さらに、この後も酸素濃度は不変ではありえません。

どうやら、地上の大陸の移動でそれは大きく変わるようです。

今から2億年あまり経つと、かつてのように再び大陸は一つにまとまるそうです。その時にまた酸素濃度低下が起きるのかどうか。まあ人類はそこまではもたないでしょうが。

 

恐竜はなぜ鳥に進化したのか―絶滅も進化も酸素濃度が決めた (文春文庫)

恐竜はなぜ鳥に進化したのか―絶滅も進化も酸素濃度が決めた (文春文庫)

 

 原始地球にはほとんどなかった大気中酸素というものが光合成生物の働きで上昇しそれが生物の進化につながったということは知ってはいましたが、その後も大きく変動しそれが動物の進化に影響を及ぼしたという推測は驚きでした。

まだ学説が固定したとは言えないでしょうが、真実はここに近いかもと思わせられるものでした。

「テレビの日本語」加藤昌男著

かつては日本語の模範とまで思われていたテレビで話される言葉が、最近では乱れていると感じます。

NHKでアナウンサーとして活動し、その後は後進アナウンサーの話し方指導も担当されたという著者が、その推移を語ります。

 

東日本大震災の起きた2011年3月11日、テレビもその番組を完全に切り替え報道一色となりました。

その時にはすでに一線から退いていた著者は、テレビ報道を見ていて非常に気になることがありました。

それは「ご覧いただく」という言葉が連発されたことだそうです。

「ご覧いただいているのは何々港の現在の様子です」「津波が押し寄せた瞬間の画像をご覧いただきましょう」

スタジオにはもう危害は及ばないという感覚が漏れてくるような言葉でした。

 

また、震災後1週間ほど経つと報道だけでなく震災を振り返るドキュメント番組も増えてきたのですが、そこでは冷静な報道の「ですます調」からセンセーショナルで刺激的な「である調」へ変わってきます。

まるで「!」や「!!」を付けたいという気持ちが表れるような体言止めも多用されるようになりました。

そしてその後結局は元通りの賑やかな話し方に戻ってしまいました。

 

テレビなどの放送で使われる言葉は、誰にでも通じるように「共通語」というもので作られます。

また聞く人に不快感を与えることがないように検討されています。

新人のアナウンサーはそういった言葉の使い方というものを念入りに訓練されてから場面に登場することになります。(のはずです)

また、正しいだけでは不十分であり限られた時間内にできるだけ内容を正確に伝えるということが求められており、そのための技術というものも身につけています。(のはずです)

 

しかし、時代の流れによりテレビ放送での話し方も徐々に変わってきました。

話す速度を著者が測定したことがありました。

映像の残っていた1964年の今福祝アナウンサーのニュースを計測すると、字数にして毎分320字だったそうですが、1980年の森本毅郎アナウンサーが401字、1992年の民放の久米宏キャスターは561字だったそうです。

また、トーク番組やバラエティー番組では話す速度が速い上にのべつ幕なしに「間」を取らずにしゃべり続けています。

さらに、言葉と言葉の間には効果音も入れ、常に音が続いている状況です。

 

最初は視覚障害者のために始まった、「字幕」もその目的を変え刺激的な文字が常に使われるようになってしまいました。

映像も字幕もこれ以上に望めないほどに詰め込んだメディアになってしまったようです。

 

テレビの初期には、アナウンサーが一人で原稿を「読む」のがニュースでした。

しかし、その後ニュース番組がワイドショーと変化すると、その主人公も「キャスター」となり、キャスターが「語りかける」形になっていきます。

そもそも、キャスターという言葉は「ニュース」と「ブロードキャスト」を合成した「ニュースキャスター」という言葉からできたものです。

キャスターには高度の「ニュース感覚」が必要であり、放送である限り的確な言葉を使う能力が必要です。

そのため、以前の経歴を見てもアナウンサーだけでなく記者出身者も見られました。

女性キャスターも数々の人々が表れ、躍進していきました。

 

大災害の時の報道はテレビの番組制作側から見ても緊急事態であり、総力をあげての放送が作られますが、ときおり不用意な言葉が使われてしまってひんしゅくを買うということもよくあるようです。

阪神淡路大震災の報道では、ヘリコプターからの中継で「高速道路が ”見事に”倒れています」とか、「煙の上がる神戸の町は ”温泉のようです”」なんとやっていまったこともあったようです。

NHKも現場の職員に注意喚起の必要から、「不適切な表現一覧」を作って配布したそうです。

 

テレビの言葉は日本語の規範であるべきという考え方もあります。

イギリスのBBCではそのような姿勢で言葉を選んでいるそうです。

しかし、日本の現状ではテレビの放送が日本語のお手本だと言えるような番組はありません。

日本語を学ぶ外国人にテレビのあの番組を見ろと言える状況ではありません。

せめてニュースと情報番組はそのような日本語を使ってほしいというのが著者の願いでした。

 

テレビの日本語 (岩波新書)

テレビの日本語 (岩波新書)

 

 

「ふつうの人の個人史の書き方・残し方」大江晴月著

「自分史」というものを書くことが流行っていて、その書き方などを教える本や教室もあるといったことも聞いてはいました。

しかし、著者の大江さんによれば現在言われている「自分史」というものはこの本で示している「個人史」とは違うということです。

 

その違いがどこにあるかというと、

(あくまでも大江さんの捉えた”自分史の書き方”では)

活字にして人に読ませることを前提とし、価値のない文章は書いてはならず、自分の過去を記録にとどめるものではない

というものであり、それに対して大江さんの主張する「個人史」というものは

「ふつうの人が自分の生きた証としてその足跡を記録に残す」ことであり、”自分史の書き方”ではそれは自分史にはならないと否定されているということです。

 

 どうも「自分史」というものについての知識がまったく無いために、大江さんの主張が妥当かどうかを判断することはできませんが、まあそういうこととしてこの本の紹介をしておきます。

 

ほとんどの人がおそらく自分の曽祖父母がどのような人生を送ったかということを知らないでしょう。もしかしたら父母の人生すら怪しいかもしれません。

ここで何もしないまま死んでしまったら自分自身も孫や曾孫からそう思われることでしょう。

 

歴史に名を残すのは特別な人間だけですが、誰でも生きてきた以上はその歴史があるはずです。

世界全体、日本全体の歴史には残さなくても、小さな個人の歴史を記録に残しておくことは意味があることです。

忘れない内に、自分が生きた証を記録として残しておこうという主張です。

 

その記録の様式、形態等々様々なものがありますが、一番大切なのは「後世に残す」ということです。それさえ満たせばどのような形でも構わないそうです。

こういったことを言うと「子供でもそんなものは読まない」と言われそうですが、子供はそうであっても、曾孫や玄孫の中に興味を持つ人が出るかもしれません。

それを気にして記録すらしなければ、誰も読むこともできません。

とにかく、すぐに記録を始めるべきです。

 

記録の方法としては、

まず「年譜」を作る。覚えていること、履歴を片っ端からメモする

次に「年表」をつくる。社会の動きと重ねる。父母の代まで広げてみる。

できるだけ写真なども入れる。

集めた資料をまとめていく(編集する)方法はいろいろとあるので好きな方法を選ぶ。

なお、父母や先祖のこともできるだけ調べて記録したほうが良いが、役所の戸籍は廃棄される年数があるので、急いで入手したほうが良い。

そして、できれば「本」の形にする。

個人的な「タイムカプセル」を作って収める。

といったことが推奨されています。

 

何か、やってみようかなと思わせるものでした。

 

ふつうの人の個人史の書き方・残し方 (楽書ブックス)

ふつうの人の個人史の書き方・残し方 (楽書ブックス)

 

 

「ペストの歴史」宮崎揚広著

人類の歴史には疫病による大きな災害が何度も起きていますが、中でもペストによるものはその死亡率の高さでも、中世ヨーロッパの社会に与えた影響でも、最も厳しいものだったと言えるでしょう。

 

この本は近世フランス史がご専門の歴史学者の宮崎さんが、主にヨーロッパでのペスト流行を詳しく記述されたものです。

 

ペストは幸いにも日本では大流行というものは発生していませんが、ヨーロッパから西アジアでは歴史上3回の大流行がありました。

最初は西暦541年にエチオピアアラビア半島に発し、地中海沿岸地域からヨーロッパ内部まで流行し、767年まで断続的に続きました。

2回目は1340年代から1840年代まで実に500年にわたって流行が繰り返されたもので、特にその始めの頃のヨーロッパにおける流行では人口の数割が死亡しました。(数値については地域と報告により大差あり)

3回目は1860年代から1950年代まで、中国南部に発してインドからアフリカ、オーストラリアなどに広がりアメリカ西海岸にまでたどり着きました。

 

これに見られるように、現代でもまだ完全にペストの危険性が去ったとは言えない状況です。

抗生物質を適切に投与すれば広がることを抑えることはできますが、根絶するには程遠いようです。

 

本書では冒頭にローマ帝国時代の流行も描かれているものの、最も力点を置かれているのは1347年から始まった「黒死病」のヨーロッパにおける流行です。

ペストの流行は何度も起きているものの、それを「黒死病」と呼ぶのはこの時期のものだけということです。

この時期にはすでに様々な文書記録が残されており、疫病の流行とその症状の記述もかなり克明になされているために、その疫病がペストであることは容易に判定できます。

 

中央アジアで流行が始まったと見られるこの大流行は、ヨーロッパには1347年6月に侵入しました。コンスタンチノープルで爆発的流行が始まりました。

そしてそれは交易船の移動に乗り、ヨーロッパ全土に広がっていくことになります。

最初に大流行となったイタリアでは、各地で死者の割合が半数以上となるような地域が多く、全滅に近い場所もあったようです。

一方、ほとんど流行しなかった地域もあり、ポーランドや東ヨーロッパ、スコットランド北部、スカンジナビアには届かなかったようです。

ベストの犠牲者割合は正確にはつかむことはできませんが、ヨーロッパ全体としては3割程度の人が死亡したようです。

 

多い地域では半数以上の人が亡くなるという事態ですので、社会そのものが崩壊してしまったところもありました。

そこまでは行かなくとも、中世の社会というものを大きく揺り動かしたのがこのペスト大流行でした。

人々は中世の長い間に培ってきた生活習慣を失い、社会のつながりというものも無くしました。

家族の絆や社会的結合、対人関係というものも大きな影響を受けました。

それまでは厳粛に行ってきた葬送儀礼も放棄され、葬式すら行われずに死者を穴に放り込むということになり、人々の宗教観、道徳観も大きく変化することになりました。

流行地からの逃亡ということも多くなり、そこの社会は死亡者が少なくても崩壊しました。

 

さらに、その原因が分からなかったためにユダヤ人などの迫害ということも起きています。

黒死病発生の地でユダヤ人虐殺ということが多数発生しました。

 

また、このような疫病は神の怒りであるとして、自らを鞭打って回る「鞭打ち苦行」ということを集団で行うことも広がります。

 

このような急激な人口減少はそれまでの経済体制というものも激変させました。

農村は放棄され、逃走した農民たちは都市部に流れ込みます。そういった人々の住むスラムは再び疫病の流行の舞台にもなります。

 

それでも、ペストの病原菌発見というのは近世に入ってからではあるものの、様々な経験から不衛生な環境というものが流行の原因であるということは判明し、都市の環境衛生というものを考えるようになってきます。

イタリアでは各都市に衛生担当者が置かれるようになり、日頃からの衛生状況の向上、また疫病発生時の患者隔離や移動制限、病気発生箇所の燻蒸殺菌などといった対策が実施されるようになります。

検疫という制度ができたのもこのためでした。入港する船舶は一定期間留置し大丈夫と分かってから上陸させるものです。

 

その点、イギリスやフランスの対応は遅れていたようで、17世紀になってもロンドンやトールーズなどで大流行というものが起きています。

 

ペストという病気がこの先も大流行するということはもう無いかもしれませんが、他の感染症が同じような流行を起こすことは無いとは言えません。

人口の3割以上が死亡するというような事態がどのようなものか、想像するだけでも恐ろしいことですが、現在の検疫制度というものもかつての大災害の記憶からできています。

万全の対策をしたいものです。

 

ペストの歴史

ペストの歴史