爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「蒸気機関車」石井幸孝著

これはかなり古い本で、昭和46年発行の中公新書です。

昭和46年(1971年)といえば、まさに蒸気機関車が日本の鉄道での活躍を終えようとしていた時期であり、私も高校生の頃でその最後の姿を写真に収めようとあちこちに出かけていた頃でした。

 

著者の石井さんは国鉄に勤務、車両設計等の担当をされて、本書執筆当時は苗穂工場次長という方で、鉄道車両に関しては一番の専門家と言えるでしょう。

 

その著者が、日本の鉄道の最初からの蒸気機関車の数々を、非常に美しい線画とともに解説されているもので、その図版を見るだけでも満足です。

 

日本に鉄道というものが紹介されたのは、幕末の頃に相次いでやってきた欧米の使節によってでした。

彼らは手土産として車両の模型を持ってきました。模型といっても実物の4分の1程度の大きさで、実際に石炭を炊いて走らせるものでした。

ペリーやプチャーチンの持参した蒸気機関車は当時の日本人に大きな反響を呼び、それを真似て各地の大名が模型を作るということも行われたようです。

 

そのような社会の雰囲気の中、実際の鉄道を早く設置したいという思いは強く、明治維新後すぐに鉄道建設を始め、明治5年5月に品川横浜間で仮開業、9月に新橋まで延長されたのでした。

直後には大阪神戸間でも鉄道敷設が進み開業します。

この東西の鉄道で使われた機関車はすべてイギリス製、鉄道運営や機関車の運転もすべてイギリス人を雇ってのことでした。

その給与も高額であったため、すぐに日本人の技術者、運転士等の養成ということも始まりました。

 

なお、開業後すぐに蒸気機関車からの火の粉で沿線火災が発生しています。

明治6年1月27日、おりからの強風で機関車の煙突から出た火の粉が沿線のワラ屋根の住居に落ちて発火、民家3軒を焼く火災となったそうです。

被害者は東京府や鉄道寮に陳情したのですが、お雇い外国人は「雷火天火の類に等しく賠償金支払いに及ばず」と言ったとか、それでもそのままにはできずに1軒あたり300円ほどの賠償金を支払ったとか。

 

その後、大正初年までは機関車もすべて外国から輸入が続きますが、国産の機関車を作ろうということで技術を磨き、ようやく8620型と9600型の国産化が始まりました。

欧米の鉄道と異なり、レールの幅が狭い狭軌というハンデがありながら巧みな設計で高性能を上げるという、日本の機関車が生まれたわけです。

とはいえ、9600型の頃にはまだ台枠用の圧延鋼板はドイツなどと比べて分厚いものができず、薄板を張り合わせるしかなかったそうです。

 

その後、戦争の時代、戦後の時代を支えたD51、貨物輸送優先の時代から旅客輸送へと変換したことに伴う、貨物用機関車からのC62、C61への改造などもありましたが、幻の機関車C63型の図版を持って本書の蒸気機関車の歴史も終わるわけです。

 

巻末には各地の蒸気機関車展示の様子も収められていますが、その後の復活運転は著者の石井さんも予想外のことかもしれません。

いまだに数多くの蒸気機関車が運転されているのは嬉しいことです。運転士の技術維持、整備技術の継承等、難しいことが多いでしょうが続けてほしいものです。

 

蒸気機関車 (1971年) (中公新書)

蒸気機関車 (1971年) (中公新書)

 

 

「内田樹の研究室」より、”英語の未来”

内田樹さんが書かれている「研究室」というブログにはなかなか興味深い内容が多いので以前の記事も読み返していますが、昨年8月の「英語の未来」というものも相当に面白いものでした。

英語の未来 (内田樹の研究室)

 

昨年の中央公論に、この内容の記事があり、そこでは私も最近読んだ「日本語が亡びるとき」という本を書いた水村美苗さんがインタビューで重大な指摘をされていたそうです。

 

それによれば、世界の各地で英語が流暢かどうかで階層化が強まっているということ、そして、日本はごく少数のものを除けば日本語が十分に話せれば良いのではないかということです。

 

内田さんは第一点には全面同意で、バーナード・ショーピグマリオンマイ・フェア・レディの原作)でも英国の内部の話ではあるものの、同様の事態を描写していることを紹介しています。

それと同じことが世界各地で現実化しており、英語が流暢に操れるもの(それは大抵は上層階級です)が訛の強い一般人などを差別するという構造ができているそうです。

 

第二点は、内田さんは同意したいがまだ状況が不明であるということです。

それは、「自動翻訳」の進展によります。

現在の機械翻訳は「第三世代」ということですが、すでにTOEICで600点くらいには達しているとか。2020年には700-800点になりそうです。

そのアプリをスマホに入れておけば、もはや自分で英語を覚える必要は無くなります。

もちろん、「翻訳者、通訳、外交官」は英語に通じる必要がありますが、そのような人は人口の1%も居るでしょうか。

 

もしもこれが予想通りに進展すれば、現在の「小学校から英語教育」などという、大量の資金と手間をかけて進められている施策など10年も経たないうちに陳腐化してしまいます。

 

安心した。もう英語を無理して勉強しなくてい良いんだ。

大相撲騒動その後 張り手やカチアゲっていけないことなの。

貴乃花の理事解任という件が正式決定、その会見の席で「被害者親方と加害者親方の処分が一緒だが」と尋ねた記者が居たそうですが、尋ねられた方も驚いたでしょう。

貴乃花が理事解任となったのは、「被害者の親方」であったことなど何の関係もないのは当然であり、あくまでも「理事として、巡業部長としての職務放棄」がその理由であり、たまたま日馬富士の親方として伊勢ケ浜が監督責任を問われて理事解任2階級降格となったのと同じであっても何の問題も無いところだからです。

 

それが分からないほどアホな記者だったのか、それともそれを気にする一部のファンが居ることを意識したのかは分かりませんが。

 

さて、それはもはや一件落着となりほとんどニュース価値もなくなったようですが、今度は初場所前の横綱審議委員会による稽古総見で、「白鵬が張り手をした」ことへの批判です。

www.nikkansports.com

日馬富士問題など実は些細な事であり、一番の関心事は「強すぎる横綱の横暴」であることは明らかなことです。

 

上記記事の表題には”禁じ手”とありますが、これが本当の「禁じ手」でないのはもちろんのことであり、たまたま白鵬が使うとその威力が激しすぎるからということに他なりません。

 

江戸時代の伝説の力士雷電はあまりにも強すぎるので張り手などを禁じ手とされたということですが、その再現をしたいのでしょうか。

 

もしも相撲がスポーツであるならば、参加者はすべて公平なルールの下で競技するのは当然のことであり、人によって、地位によって、やって良いことと悪いことが違うなどというのは論外です。

 

それは、もはやスポーツではなく「興行」の世界です。あいつはあまりにも強すぎるから少しハンデを付けてやれ、という博打や賭け事にもつながってくる話になってきます。

プロレスをイメージすればわかりやすいことです。(ファンの人にはごめんなさい)

 

確かに白鵬の張り手やカチアゲは威力がありすぎ、それで朦朧とする相手の状態を見ればちょっと激しすぎるとは感じます。

それならば、張り手自体を「本当の禁じ手」とし、全力士に禁止すべきです。

 

それもできずに、「横綱らしくない」などという分かりにくい口実を持ち出して批判するのは相撲道を持ち出して変な理屈をこねくり回す輩と同程度と見えます。

 

もういい加減に「相撲は興行に過ぎない」ということを認めて、演技たっぷりに盛り上げたらどうですか。地方巡業のように。

八百長も適当に入れて、何よりもひどい怪我をしないように。

 

「志ん朝の落語1 男と女」京須智充編

(編者のお名前の「智」の字は正しくは「ニンベンに皆」という字です)

 

古今亭志ん朝さんといえば古典落語の名手として知られた落語家でしたが、2001年に亡くなられましたのでもう16年も経っています。しかし、あの語り口はいまだに記憶に残っているところです。

 

編者の京須さんはソニーミュージック社で落語の録音をされていたようで、志ん朝さんはそういった記録を嫌っていた中、ただ一人録音を許されて実施したそうです。

この本はその落語の音源から活字化したもので、シリーズ6冊が刊行された中の「男と女」編です。

男女の仲を扱った落語を収録しています。

 

江戸時代の落語では、男女の仲の話というと、どうしても「廓噺」(くるわばなし)という、吉原などの遊郭を取り扱ったものが主となります。

この本でも「明烏」「品川心中」や「お直し」「文違い」といったものが収められています。

 

私の好きなものでは「崇徳院」がありますが、これは上方噺を江戸に移したものだそうです。地名など修正をしてあります。

 

なお、録音から活字化したのはどなたかとは明記してありませんが、江戸の言葉をできるだけ字にしたいということで、カタカナやフリガナなどを駆使してその味を伝えようとしています。

 

毎日(まいんち)毎日(まいんち)家(うち)イ閉じこもって本ばかり読んでんだよ。

(カッコ内は振り仮名)

といった調子で、かつて聞いた覚えのある江戸言葉の落語が耳に蘇るような感覚になります。

「他人」にも「しと」と振り仮名が振ってあり、そういう言葉も聞いたなと感じます。

 

バブル崩壊以降の社会の変化で、こういった落語の世界の人情というものも相当変わってしまったようにも感じます。

もはやその記憶の残るのも我らのような中高年だけでしょうか。

せめて、落語でも楽しみながら今は亡き日々に思いを馳せましょうか。

 

志ん朝の落語〈1〉男と女 (ちくま文庫)

志ん朝の落語〈1〉男と女 (ちくま文庫)

 

 

「海賊の世界史 古代ギリシアから大航海時代、現代ソマリアまで」桃井治郎著

「海賊」といえば一番イメージしやすいのは「カリブの海賊」といったところかもしれませんが、副題にあるように歴史の最初から最後まで、つまりいつでも海賊というものはあちこちに出没していたようです。

 

文明というものが興ると人や物資の移動が盛んとなりましたが、その大きな手段は海運でした。

そうなれば、その途中で頂いてしまおうという考えが出てくるのも当然かもしれません。

それを放っておいては流通が滞りますので、正統政権側はできるだけ取り締まろうとするのも、何時でも同様でした。しかし、なかなか難しかったようです。

 

本書は、その中でも西洋史として扱われた範囲を主とした記述となっています。倭寇などの東アジア海賊については触れられなかったとまえがきに「お詫び」が書いてありました。

 

紀元前5世紀のギリシアの歴史家ヘロドトスが著した「歴史」にはサモス島の支配者ポリュクラテスについての記述があります。

このポリュクラテスなる人物はまさに「海賊王」と呼ぶにふさわしいものです。

歴史の始祖とも言えるヘロドトスと同じ時期にすでに海賊の始祖も出現していたわけです。

 

古代ローマは宿敵カルタゴと地中海の覇権をめぐって争い、ポエニ戦争に勝利しました。しかし、そこで得られたものはあくまでも「西地中海」だけの覇権であり、東地中海には手がつけられませんでした。

そこには、「キリキア海賊」と呼ばれる連中が跋扈しており、そこを通る商船を略奪するだけでなく、周辺の国々を略奪し放題だったようです。

カエサルも一時その海賊に捕われ、身代金を要求されたそうです。

それらの海賊を一掃できたのはローマがさらに強大になってからのことでした。

 

ローマ帝国が衰亡し、西ローマが滅亡すると、再び地中海は海賊が再興します。

その最初は、ゲルマン民族の移動により地中海にやってきたヴァンダル族でしたが、その後イスラム教の興隆に伴い広がってきたムスリム海賊になります。

ちょうどその頃には北ヨーロッパではヴァイキングの活動が活発となり、各地がその襲来を受けました。

 

14世紀にオスマン・トルコが強大となり、さらにヨーロッパではスペインがレコンキスタに成功してイベリア半島を取り戻すと、その間に挟まれた地中海では両国の争いの隙間で海賊の活動も激しくなります。

海賊の首領を雇ってそれぞれの帝国総督とするなどということも行われたために、北アフリカは海賊国家が乱立する状況となります。

彼らは商船を襲うとともに、南イタリアなどの町を襲い、略奪するとともに住民を拉致し奴隷とするということも頻発します。

 

1571年にレパントの海戦が起き、スペインがオスマン・トルコに勝利しますがそれで地中海が治まったわけではなく、結局は海賊たちの勢力が圧倒することになりました。

レパントの海戦に参加し、その後スペインに帰国しようとしたセルバンテスも海賊に捕まり奴隷とされました。

解放されたのは10年後だったのです。

 

その頃、ジェノバコロンブスはスペインの力を借り大西洋を渡り、アメリカに到達します。

スペイン人たちは大挙新大陸に来襲し、征服してその富をヨーロッパに持ち帰りました。

その富の独占に対し、特にイギリス人などはスペイン船を襲い積荷を強奪するということを始めます。

イギリスは当時スペインと敵対しており、そのような海賊行為も国家のためと見なされて王から賞賛されるというものでした。

有名なフランシス・ドレークやヘンリー・モーガンといった海賊はカリブ海に陣取り、スペイン船を襲い続けました。彼らをバッカニアと呼ぶそうです。

 

18世紀になると、ヨーロッパ諸国と北アフリカの海賊勢力とは一応の和平条約を結ぶこととなります。

しかし、これはヨーロッパが多額の貢納を行うことで、商船通行を見逃してもらうというものでした。

しかし、ちょうどこの頃にアメリカ合衆国が独立しました。アメリカの商船はそれまでのイギリス国旗ではなくアメリカ国旗を掲げるようになったのですが、そうなるとイギリス船は見逃していた地中海海賊がアメリカ船は遠慮なく襲うようになりました。

建国間もないアメリカでは、こういった海賊の対策としてヨーロッパ各国と同様に貢納して見逃してもらうか、海軍を派遣して打ち破るかの論争になりました。

それはついに、トリポリがアメリカ商船カスリーン号を拿捕するという事件に対し、ジェファーソン大統領が艦隊を派遣して開戦するということになります。

かなりの苦戦をしたものの、結局アメリカが勝利し、トリポリ政権は敗北します。

これがアメリカの軍事力を背景にした外交の最初の成功とも言えます。

そして他のヨーロッパ諸国も同様に海賊との交渉を止め、軍事力で排除するようになりました。

 

こうして、各国の軍事力充実により海賊は消え去りましたが、現代になり国家が破綻したソマリアでは再び海賊出現となってしまいました。

隙あれば現れるのが海賊のようです。

しかし、本書冒頭に書かれているように、アレクサンダー大王の前に捕らわれた海賊が引き出され、大王に「なぜお前は海を荒らすのか」と問われると海賊が「私が小さな舟でするので盗賊と呼ばれ、陛下は大艦隊でするので帝王と呼ばれるだけです」と語ったとか。

海賊も国家もやることは変わらないということでしょう。

 

 

「歴史に気候を読む」吉野正敏著

歴史の多くの展開に気候というものが大きな影響を及ぼしたということは、容易に想像できますが、実は歴史学ではあまりそれを取り上げることはなかったようです。

 

これまでにその観点から論じたのは、1940年代に西岡秀雄氏が、1983年に原田常治氏が発表されたそうですが、いずれも学界からはほとんど無視されたままでした。

これには、彼らの学説が根拠不十分であったということもあるのですが、その中には考えるべき事実も隠されていたようです。

 

本書はそのような気候の人間社会への影響そのものを論じるというものではありませんが、古今東西で様々な気候が社会の営みにどのような影響を与えたかという例を数多く挙げています。

 

東アジアでは、8世紀から10世紀の頃には温暖な気候に恵まれました。

その頃はすでに日本では公家の間で日記記録をつける習慣が生まれており、そこでは桜の開花の記述が見られその日付も分かるようになっています。

それを見ると、この年代では他の時代に比べて桜開花が早まっており、気温も1℃から1.5℃も高かったようです。その後は低温期になりました。

その時期は中国でも唐王朝の最盛時にあたり、安定した農業生産で政治も安定したようです。

 

戦国時代、武田信玄上杉謙信が何度も争った川中島の戦いは有名ですが、その記録を見ると徐々に低温傾向となり、小氷期に向かっていることが分かるそうです。

その数年後、武田勝頼を滅ぼした織田軍はその帰途に現在の4月30日に多くの兵が風雪で凍死したそうです。

 

瀬戸内海に勢力を持った、村上水軍はその操船法が優れていたことでも有名ですが、気候についても優れた知識と洞察力を持ち、風を利用した操船が巧みであったそうです。

村上雅房が1456年に著した、「一品流三島村上流船行要術」は我が国最初の気象学の書と見なせるそうです。

これは、コロンブスより60年早く、ガリレオより140年早いとか。

 

気候の影響はなかなか大きいもののようです。

ほんの数℃の気温上昇で世界破滅かと唱えている現代では、歴史の見方も変えなければいけないのではないでしょうか。

 

歴史に気候を読む

歴史に気候を読む

 

 

「やる気もある!能力もある!でもどうにもならない職場 閉塞感の正体」草間徹著

閉塞感とは、個人が抱く感覚ですが、職場や社会の中で「狭いところに閉じ込められ」「身動きができない」「手のうちようがない」と感じられる状態です。

 

今の日本社会はこのような閉塞感が充満しているようです。

 

著者の草間さんは、クレイア・コンサルティングという企業の組織や人事をコンサルティングする会社を経営しており、そのような企業の雰囲気をなんとかして変えようということに取り組んでいます。

 

この本はそのような多数の実例から、少しでも働く人々が希望を持てるようにできる方策を探っています。

 

現在の企業では、20代から50代までの幅広い年齢、キャリア、地位の人々の誰もが閉塞感を感じてしまうという状況になっています。

第1章では、そのような人々の実例を架空の物語として示していますが、どれも実話を元に書かれています。

30代の中堅システムエンジニアは、マネージャーへの昇進の道は閉ざされています。

40代のOA機器メーカーのフィールドエンジニアは子会社への出向を迫られ行けばもう帰る事はありません。

50代の人事部長は会社が合併され社員のリストラを実施させられ、多くの人を辞めさせたあと自分も退職せざるを得ません。

20代のベンチャー企業社員はやりがいのある仕事を求めて転職をしたら条件の悪い求人しか無く、転落寸前です。

 

こういった閉塞状況になってしまったのはなぜかということを、次章以降で解説しています。

事業の変化、組織の目詰まりというものが起こり、社員の年齢構成の逆転が起き、どこでも高年齢社員が多く、若年社員が少ないということになってしまいました。

これでは、昇進どころか定年まで働くということも危なくなります。

また、事業が急激に変化しているために専門性を持った仕事をしている社員もその仕事自体無くなってしまうという事態も頻発しています。

 

会社のビジネスモデルと言うもの自体、非常に速い速度で変化していきます。かつては儲けの仕組みであったやり方がもはや通用しなくなっているにも関わらず、そこから抜け出せない会社が多いのです。

いよいよだめとなって拠点閉鎖となると、そこに勤めていた人には転勤か退職かという道しか残されていません。

会社側も希望退職の募集を行いますが、それも度重なると社員たちの人心の荒廃となります。

 

現在の多くの企業では、業績評価制度を採用していますが、その制度の基本となっているのは予算制度です。

営業職の場合では、販売予算というものが決められておりそれの到達度で評価されるということが多いのですが、これまでのデフレ経済ではほとんどの場合売上が昨年より低下します。

しかし、販売予算は必ず前年より上回って作られますので、ほとんどの場合予算未達となり、到達度は低くなるようになっているのです。

しかも、販売促進費や支援スタッフ費用は削られています。ますます追い詰められていくばかりです。

 

会社の年齢構成で、ピラミッド構造ということが言われますが、実際に高度成長期の日本経済ではこのような構造が存在できる状況でした。

どんどんと事業が拡大していったために、若年層はどんどんと増加し、中年層の就くべき管理職も増加していました。

あまり苦労もせずにピラミッド構造が構築できたのです。

しかし、常に拡大していく企業でなければこのような事態はもう望めません。

それでもその構造を続けていたのですから、破綻しないわけには行きません。

 

さて、現状とその経緯は分かったとして、それではどうすれば良いのでしょうか。

本書第4章に書かれているのがその方策です。

自社の人事制度を熟知し、そこで最良の結果を出す。

専門性の変化に対応し、新技術でも専門家としてやっていける実力を付ける。

社外でも通用する人材となり、場合によっては事業を興す。

 

まあ、お説ごもっともなんですが、そんなことができる人ならそもそも「閉塞感」なんて持っていないと思いますが。

 

なお、最後にこのような日本の企業社会での閉塞感の原因は「最初に入社した会社でその後の職業人生が決まる」ことにあるとしています。

これはまったく間違いないところで、ここに全ての問題点も凝縮されていると感じます。

大企業や国家公務員がそうであるのは言うまでもないのですが、ベンチャー企業などもすぐにそれに染まってしまうようです。

退職金や年金制度も長期の勤続が有利となっており、制度から変えていかなければ動かないでしょうが、どこかで手を付けなければならないことでしょう。