この本は4年ちょっと前に一度読んでおり、ブログも書いていますがその内容はあまり整理されておらず、その当時はまだまだ自分の読解力も未熟だったなと思います。
だからというわけでもないのですが、再読してみました。
(これはいつもの”気が付かずまた読んじゃった”ではありません。と強調しておく)
やはりこの、「法令遵守」というものの問題性が昨今さらに深まっているように感じられるせいもあります。
法令を守っていないと指摘され、企業などが謝罪するという、コンプライアンス事件は最近でも頻発しています。
しかし、郷原さんの指摘するのは「法令遵守」で済まそうとするのは全くの方向違いであるということです。
逆に、法令遵守というものが弊害ばかりをもたらすものであるということです。
日本が「無法国家」であるとは言えません。明治以来欧米から輸入した近代法で精緻な法体系を作り上げた「法令国家」です。
しかし、官僚統制経済体制のもとでは、そのような法令というものは「象徴としての存在」に過ぎず、「法令と実態の乖離」というものが横行する社会となっています。
それが「非法治国家たる法令国家」という他にはほとんど例のない奇妙な国家となっています。
そのような状況では、「法令遵守」ばかりを唱えるのは逆効果になるというものです。
郷原さんは以上のような観点から、日本が法治国家であるかどうか、また「法令遵守」を行うだけでは企業がやっていけないということを、建設業界の談合問題、経済界でのライブドア事件、村上ファンド事件を例として説明しています。
また、耐震強度事件も「法の失敗」という見方から論じています。
パロマのガス湯沸かし器の引き起こした多数の死亡事故も法令遵守はしても事故が起きたのはなぜかという点から見ています。
日本の法令というものは、あちこちに実態からの乖離が生じせいぜい象徴程度の意味しか持てなくなっているのですが、それでも法令が作られたからには、何らかの社会的要請が存在したはずです。
本来であれば、法令を守ってさえ居れば社会的要請に答えることができたはずですが、すでに法令と実態に乖離があるために法令ばかり見ていると社会的要請には答えられないことになります。
その例として、JR福知山線脱線事故の際に被害者家族が医療機関に肉親の安否を問い合わせても、個人情報保護を楯にとって回答拒否をしたということがあります。
個人情報保護法が何のためにあるかを考えれば、そんな対応ができるはずはないのですが、その社会的要請を考えることができない担当者は法律の条文に従って作られた対応マニュアルだけを見て回答拒否をしました。
昨今のマスコミ報道でも、コンプライアンスというものを単純に「法令遵守」とだけ置き換えた態度を取ります。
(ただし、マスコミの文字の用法では遵守の遵の字は仕えないので法令順守ですが)
そのような子供っぽい態度のせいで、社会全体が法令遵守至上主義のようになってしまいました。
アメリカのような法令中心、司法中心の社会では、法令遵守を完全に成し遂げれば社会的要請にも応えられるのですが、日本はそのような法体系になっていません。
そこで、郷原さんは「フルセット・コンプライアンス」ということを提唱しています。
第一に、社会的要請を的確に把握し、その要請に応えていくための組織としての方針を明らかにすること。
第二に、その方針に従いバランスよく応えていくための組織体制を構築すること。
第三に、組織全体を方針実現に向けて機能させていくこと。
第四に、方針に反する行為が行われた事実が明らかになった時は原因究明し再発防止すること。
第五に、一つに組織だけで社会的要請に応えようとしても困難な事情、すなわち組織が活動する環境自体に問題がある場合にはその環境から改めること。
「真の法治国家」に日本を作り変えていくということが必要なのでしょう。