爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

クロマグロ漁についてニュース。操業制限が本当にできるのか。

クロマグロ(ホンマグロ)の資源保護と言う問題では、漁獲制限が上手く行かずに混乱しているようですが、渡辺宏さんの「安心?!食べ物情報」にもこの記事が載っていました。

http://food.kenji.ne.jp/review/review934.html

記事内容は、小型クロマグロ(30kg未満)の漁獲量が制限を越えたために各地の定置網漁の自粛を水産庁が通知したそうですが、北海道だけが獲りすぎていたためだとして、和歌山県が意見書を提出したということです。

 

これは当たり前の話で、どこか一箇所が大幅に獲りすぎて制限を超過したからと言って他のところも自粛せよというのは無理があります。

 

少なくとも地域単位の制限厳守、さらには漁協単位、個別の業者それぞれの漁獲枠制限というところまで行かなければ公平で納得得られるものにはならないでしょう。

マグロだけでなく他の魚種でも同様の問題は多いようです。

 

ツイッターでは勝川俊雄さんもこの問題について多くの意見を表明されていますが、次のようなものを引用されていました。

tatus/918

www.suikei.co.jpこのような違法操業を野放しにしていればいくら漁獲枠厳守と言っていても無理でしょう。

 

世界の他の漁場では適切な漁獲枠管理で漁業資源回復に向かっているところもあるようです。

無策のまま資源枯渇に向かってしまっているというのはあまりにも愚かな状態でしょう。

 

なお、今週の「安心?!食べ物情報」では、他にも食中毒(カンピロ・サルモネラ)の事故発生や、クマ出没の記事も参考になりました。

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夢の話「バレーボールの試合」

久しぶりに筋のはっきりしていて、なおかつ公開しても差し支えない夢をみました。

なかなかこの2条件クリアという夢は見ないもので、何かグジャグジャの妄想のような、とても書けないような夢ばかりこのところ見ていたのですが。

 

今日の夢は、バレーボールの試合をしているというものです。

それもどこかの大きな体育館で大勢の観客も入り、実業団か大学チームのようでした。

 

現在の体格からは他人から想像もできないはずですが、私も高校時代にはバレー部に所属していたという過去?がありました。

県大会に行っても2-3回しか勝てない程度の弱小チームでしたが、その中でも背も低く運動神経もそれほど良くない私はレギュラーにもなれずに終わったのですが、その後も会社に入ってからも同好会を続けて結構年を取るまで楽しめました。

 

しかし、今回の夢の中では自分の身長もかなり高いようで、エースアタッカーのようです。

チーム名は「シ✕✕✕✕ン」(高校名そのままなんで、伏せ字)赤いユニフォームです。

相手チームは「カ✕✕ラ」(これもかつての隣校名そのまま)です。

 

ところがなんとしたことでしょう。

怪我や病気でチームメイトが続々倒れ、なんと3人で試合をしなければならなくなりました。

もちろん、公式戦では6人揃わなければ失格ですが、そこは夢の中。そのまま試合続行です。

3人でレシーブから攻撃。それで結構相手のブロックを抜き決めていき、8対0でリードしているところで急に寒気がして目が覚めてしまいました。(今朝は今季最高の冷え込みでした)

 

ビーチバレーでも経験があり、体育館練習でも人数を減らして対戦ということはありますが、通常コートでの3名での試合というのはかなりきついものです。

しかし、うまく流れに乗れば面白いように決めることも可能です。

 

もう何十年もボールにも触っていないのですが、その感触も思い出せるような夢でした。

 

「日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で」水村美苗著

グローバル化のために幼児に英語教育」などという議論を聞くと、「それじゃ日本人が小説や詩を英語で書くようになるのか」と反発を覚えていましたが、そういった問題について非常に優れた分析を展開されている本を発見しました。

 

発見したといっても、私が知らなかっただけで2008年に本書出版された時には結構話題にもなっていたようです。

ブログで取り上げている方もありました。

d.hatena.ne.jp

著者の水村さんは、父上の転勤に伴われてアメリカに渡ったものの周囲になじめずに家の中で「現代日本文学全集」を読んで過ごしていたそうです。

その後アメリカで大学卒業したものの日本に帰国し、日本で著述をされています。

しかし、この本に見られる言語というもの、文学というもの、そして日本語などの国語と言われる言語の運命、普遍語になりつつある英語の将来など、その認識や分析など非常に優れた感覚を感じます。

 

小説家や詩人など、作家と呼ばれる人々は自分たちの言葉で作品を作り出しています。

それはどの国でも「自分たちの国を思う心」と密接に結びついているのですが、実はそれが可能な言葉を持つ人々というのは(英語圏を除けば)それほど多いわけではありません。

英語以外の言葉で、それぞれの国の「国語」となり得た言葉では一応の出版活動ができるのですが、国語になれなかった言葉たとえばボツワナの「ツワナ語」という言葉はその地位が得られずに「現地語」としか扱われません。

実はそういった「国語」となった言葉は意外に少数なのです。

 

その中でも、日本語は他の言語と比べても非常に古い時代から文学作品を産み出し、それがずっと引き続いて活動を続け、さらに近代に入ってからも多くの文学作品が頻出しているという、世界的にも数少ない言語と言うことができます。

 

これが、もしも江戸幕府末にアメリカの国情が内戦など起こすような状態でなく、体外的に進出できる状況だったとしたら、日本がアメリカの植民地と化す可能性も無かったわけではありません。

そうなっていたら日本語の状況はどうだったでしょうか。

公的な場所では英語しか使われず、主要な文学作品も英語で書かれ、民衆の話す俗語だけが日本語ということになっていたかもしれません。

しかし、アジア・アフリカのほとんどの国ではそういった運命をたどっているのです。

 

古代に戻って考えていくと、ヨーロッパ圏では「書き言葉」はすべてラテン語でした。

貴族や僧侶など、教養を持つ人々はラテン語で書き、読んでいたのです。

その内容は様々ですが人々の多くの知識をそこに書き込んでいたわけであり、そのような「図書館」にその知識を溜め込み続けていました。

中国圏ではそれは漢文に当たります。

中国本国は言うまでもなく、日本や朝鮮、ベトナム等周辺国でも書き言葉は漢字を使った漢文であり、それを操れるのも知識人のみでした。

 

中世を過ぎた頃から、それまでの「現地語」で「ラテン語」で書かれていたものを書こうという動きが各国で起きてきます。

ダンテが神曲を現地語のフィレンツェ方言で書いたことでイタリア語が成立したというのは有名な話ですが、ダンテもそれ以外はラテン語を読み書きし重要な作品をラテン語で書いていました。

聖書をドイツ語で書きプロテスタント運動を起こしたマルティン・ルターラテン語を日常的に読み書きし、遺書はラテン語で書かれているそうです。

そのような各国の知識人たちが、しかし彼らの現地語を用いて重要な内容を書くようになったこと、それが近代化と言うものでした。

ラテン語という、「普遍語による図書館」に大きな蓄積があったのですが、新たな「国語」を用いた図書館に次々と新たな知識が貯め込まれ、すぐにラテン語図書館を追い越しました。

それが、フランス語、英語、ドイツ語で起きたことでした。

 

そのようなヨーロッパでの「国語の成立」というものは、せいぜい12世紀以降、散文について言えば17世紀に入ってからのことです。

しかし、日本語はその地理的な偶然、歴史的条件から、非常に早い時期から国語として成熟していたのです。

すでに江戸時代には印刷というものも普及していました。当時としては驚異的な速度で印刷物が流通していたのです。

その後、幕末維新の時期には西欧からの様々な知識というものが押し寄せてきました。

ここで日本人の対応としては「翻訳」という手段を使うことになりました。

これは他のアジア・アフリカ諸国が植民地となったのに、それを日本は免れたという幸運もあるのですが、従来の漢文からの翻訳と言う手法に慣れていたことも関わっています。

 

そして、そのような翻訳文化を支えた知識人たちは一方では日本語を用いた小説などの文学作品の発表を行いました。

夏目漱石は英国留学を果たし英語を操ったのですが、日本語で文体を創造して数多くの小説を発表しました。

当時は彼らは英語などで直接小説などを書く必要はなかったためです。

しかし、現代は日本国内向けだけに作品を発表する時代ではなくなりました。

もしも漱石が現代に生きていたら、はたして小説を日本語で書いたかと著者は疑問を呈しています。

もしかしたら、英語で書いた文学を世界に向けて発表していたかもしれない。

 

もはや、現代では自然科学系の科学者たちは英語で書いた論文を世界に向けて発表しています。

もしも、小説や詩などを書く文学者たちも英語で書いた作品を世界に発表するようになったとしたら、日本語はそのときに亡びると言えるのでしょう。

 

著者はこれからの学校教育の英語対策として3策を挙げています。

1英語を国語にしてしまう。

2国民の全員がバイリンガルになるのを目指す。

3国民の一部のエリートがバイリンガルになるのを目指す。

 

このうち、1は不可能でしょう。

政府は小学校からの英語教育開始ということで、2を目指しているように見えます。しかし、これはほとんどできるはずもないことで、せいぜい外国人旅行者に道案内できる程度のものでしょう。

著者が勧めるのは、3であり、一部の知識人のみが英語を自由自在に操って海外向けに自分たちの考えを発表できるようにするべきであるといいます。

そして、他の一般庶民に対してはかえって日本語教育を徹底すること。

現状の学校教育では日本語教育というものが不当に軽視されています。

これをしなければ、本当に「日本語は亡びる」としています。

 

英語教育推進論者たちが、諸国では英語を使って教育を進めているとして、シンガポールやフィリピンその他の国の例を挙げていますが、シンガポールではすでに公用語が英語化しており、マレー語などは使われなくなっているそうです。

日本語もその道を辿るのか。

 

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

 

 折も折、ノーベル文学賞にイギリス在住のカズオ・イシグロ氏が選ばれました。村上春樹も英語で発表していればもっと早くノーベル賞が取れたなどという論評も聞こえてきました。

日本語滅亡も近いのかもしれません。

「〈鬼子〉たちの肖像 中国人が描いた日本人」武田雅哉著

〈鬼子〉には「グイヅ」とフリガナが振ってあります。

中国人がかつて日本との戦争の頃に日本人を指して呼んでいた言葉です。

 

鬼子とは人間とは見なされないものです。

日本でも「鬼畜米英」などと言っていたものです。

 戦国時代のように相手も同類と知って戦っていた時代とは異なり、普段は顔を合わせることもないような遠国と戦う場合はどこでもそうなりがちなのかもしれません。

 

ただし、中国で日本人を「鬼子」と呼んで忌み嫌ったというのは、日中戦争などの起きた20世紀の方が強かったようなのですが、本書では日清戦争前後の資料を主に解説していということで、本当は「倭奴」を呼んでいたようです。

最終期にはいってようやく「鬼子」と呼ぶ例が出てきたということですが、20世紀に入っての事例はまた別の本にしたいということでした。

 

1920年代以降の抗日戦争の時には、数多くの抗日宣伝画が描かれプロパガンダ用に配られたのですが、そこでは日本軍や日本人というものが醜悪なものとして描かれており、東条英機をモデルとしてつぶれた鼻、出っ歯、メガネ、禿頭といった風貌で表されました。

ただし、ここでは醜悪であってもあくまでも「人間」としては描かれており、それはその前の時代、日清戦争に至る頃とはかなり違いがあるようです。

 

そもそも、中国文明においては中華と言う場所が中心であり、そこに住むのが「人間」でした。

そこから離れると徐々に異型になっていき、人間離れしてくるのですが、それを中国人は「鬼」と表現していたのです。

「鬼」という言葉は死後の霊魂なども指すことがあるのですが、怪物じみた存在を表現することも多々ありました。

漢代に成立したと言われる山海経という本がありますが、これは地理を扱っているもののその中には遠い異国に住む怪物といった表現もあります。

明代に博物学書として書かれた李時珍の「本草綱目」という書は有名なものですが、その中にも遠国に住む怪物というものをまとめた章もあります。

 

清の時代になって西洋などから外国人が数多く訪れるようになっても民衆の意識は大して変わるものではなく、本当に自分たちと同じ人間かどうか怪しんでいました。

イギリス人マカートニーが最初に朝廷に入り皇帝乾隆帝に拝謁した際、跪いて叩頭するように迫った清国人に対しイギリス使節は強硬に抵抗したために、イギリス人は膝関節が無く、曲げることができないので跪けないのだと荒唐無稽な解釈を広めそれを一般人は信じ込んだようです。

 

日清戦争が迫る時代になるとさすがに民衆間でも交流が広がったために、日本人が人間ではないといった認識はなくなりました。

しかし、中国での日本に関する報道は悪意にみちたものであり、怪物が出没するという話も頻発、なにがあってもおかしくない夷狄の地というイメージを振りまきました。

それ以前には日本を表すのに「日」や「日本」と書かれていたものが、「倭人」「倭奴」などと蔑称を使うようになりました。

これも中国民衆の悪意が強まったためでしょう。

(ただし、日本の国内での報道もそれ以上に悪意だらけであったのも言うまでもありません)

 

中国では「鬼子」というのはもともと西洋人のことを表していました。

しかし日清政争以降の日本進出が激しくなると、まず「ニセ鬼子」と日本人を呼ぶようになり、さらに満州事変以降は「鬼子」と言えば日本人ということになります。

 

現代から見ればまだまだ幼稚とも言えるレベルの宣伝合戦ですが、現代でも双方のやっていることを冷静に見れば同様のことを続けているのかもしれません。

 

 

「修己治人の学『大学』を読む」守屋洋著

中国の古典として四書五経というものがあるというのは知ってはいても、またその四書の書名が大学・中庸・論語孟子であることを知ってはいても、その内容まではまったく分からないままでした。

 

その一つ「大学」を読むという本を中国文学者の守屋さんが書きました。

 

儒教の原典としての四書五経とは、四書(大学・中庸・論語孟子)五経(書経易経詩経礼記・春秋)ですが、もともとは五経が重視されており、漢の武帝の時代に儒教が国教とされた際にも「五経博士」が置かれて儒教研究・布教の第一とされたのですが、四書はあまり注目されていなかったようです。

 

それが、宋の時代になり朱熹朱子)が現れ、それまでの儒教が国による保護にあぐらをかいて形骸化したものを再興しようとし、いわゆる朱子学を立ち上げた際に取り上げたのが「大学」でした。

朱子学は宋時代に起こったので「宋学」とも言いますが、その後日本の江戸時代に儒教を幕府や各藩が取り入れて教育の基本とした際にもその朱子学を中心としたものでした。

そのため、現代から見ても江戸時代の封建体制を支えていた「儒学」というものが実は「朱子学」であったことになります。

 

朱子学が目指したものはもともとの孔子孟子が目指したものと同じとしています。

それは、「修己治人」つまり個人の修養から始まり家庭の道徳、社会の倫理を正し、天下国家を収めると言うことであり、重視されたのが「徳」です。

上に立つものがまず徳を身に着けそれを下々に及ぼしていくというのが儒教の目指す徳化でした。

 

孔子孟子もその修己治人を説いていたのですが、実はその具体的なイメージは作っていません。

一貫した体系としては作っていませんでした。

それを作り上げたのは実は宋代になって朱子が成し遂げたことでした。

 

朱子学儒教古典の中でもっとも重要視したのが「大学」でした。

それに続けて「論語」「孟子」「中庸」と進み、さらに「五経」を学ぶべきだとされたのでした。

 

「大学」はもともとは五経の一つ「礼記」の中の一篇に過ぎず、字数も全部で1753文字と極めて短いもので、成立も不明確なものです。

朱子はその一篇にかなり修正を加え、朱子学の基本として位置づけました。

すべての門人はまず大学を学び儒学を学ぶ基本を身につけるものとしたのです。

 

本文は朱子が書いた「大学章句序」に「経一章」「伝十章」、さらに参考として「白鹿洞書院掲示」を原文、読み下し文、現代語訳を併記しています。

書かれている文章はどこかで聞いたようなものが多く、江戸期以降かなり浸透したものであることが分かります。

「修身斉家治国平天下」とか、「徳は本なり、財は末なり」、「長幼序あり、朋友信あり」等々、封建的というイメージそのままの言葉が並んでいますが、現代の政治経済などの惨状を見ればこういった姿勢が何より必要なことと言えるでしょう。

 

相撲でもプロ野球でも新人を集めての基礎知識講習会が開かれているそうです。

政治家も新人(だけじゃなかったベテランも、閣僚級も、もちろん総理も)を集めてこの「大学」のようなテキストを用いて政治姿勢というものの徹底講習をやったらいかがでしょうか。

 

「大学」を読む

「大学」を読む

 

 

因果関係と相関関係 栄養疫学では切実な問題 児林聡美さんのコラムより

FOOCOM.NET専門家コラムで興味深い記事を書いている、栄養疫学研究者の児林聡美さんが、相関関係と因果関係ということについて解説しています。

www.foocom.net

栄養疫学に限らず、「疫学」という研究手法はあるがままの実態を様々な方向からみていくことで真相にたどり着くという道筋を辿りますので、この相関関係と因果関係と言う問題が常につきまとうものです。

 

児林さんが記事の中で例に取っているのが、「日本人のコメ摂取量の経年変化」と「日本人の交通事故死者数の経年変化」です。

これが、実にきれいに減少傾向が一致しています。

もちろん、この2者に因果関係があるはずもないことは誰にでも分かりますが、同じ期間を取り同じ日本人のデータであるということでかすかな関係はありますので、相関関係と言うことは可能です。

 

しかし、これが「交通事故死者数」ではなく、何らかの疾患の患者数や死者数であったらどうでしょうか。

これがもしも同様の減少率あるいは逆に増加率であったとしたら、「米の摂取量の減少がその疾患の減少(または増加)である」という判断をする人も出そうです。

 

このような、「因果と相関の混同」というのはあちこちで見られるようで、健康関係の情報では医者など専門家の発信のものでも間違えている(あるいは故意に取り違えている)例が頻発しています。

たとえば「加齢とともに◯◯の体内濃度が低下するので、補いましょう」といったものでしょうか。

危ない危ない。

 

また、もう一つの例で引かれているのは、血圧の値とナトリウム摂取量の関係です。

この数値だけを見るとナトリウム摂取量が低いほうが血圧が高いと判断されるのですが、実はその摂取量が低い人たちは高血圧のために減塩食摂取の指導中ということで、摂取量が低くてもまだ効果が出ていないのだとか。

 

このように、疫学調査では多数の調査対象からのデータをまとめますが、その事情は千差万別、いろいろな状況があることを忘れてはならないようです。

 

児林さんのこのシリーズ。なかなか基本的な科学的視点について教えてくれることが多いようです。

「羽生必敗の法則」田中寅彦著

現在の将棋界では、藤井聡太四段が中学生棋士として目を見張る活躍をして注目を集めていますが、およそ30年ほど前には羽生善治(現在王座棋聖)がやはり中学生でプロ棋士となり大活躍をしました。

当時は今ほど騒がれもしませんでしたが、その実力は圧倒的なものであり、その後次々とタイトルを奪取、そしてプロ入り後およそ10年してタイトル全制覇という七冠独占という偉業を成し遂げます。(名人・竜王・王座・棋聖・王位・王将・棋王

その後若い棋士たちに次々とタイトルを奪われていきますが、それから20年以上経った今でも王座と棋聖を保持しているということを見ても最近までの将棋界を制覇してきたと言えるでしょう。

 

この本は、七冠独占達成の直後に、やはりプロ棋士である田中寅彦氏が書いたもので、羽生を破るにはどうしたら良いかということを、真面目とジョークをかなり交え(ジョークの方が多いが)並べてあります。

田中氏はその当時羽生相手に対戦数は少ないものの4勝1敗と勝ち越しており、そこでこのような本を書いたと言っていますが、これもジョークです。

しかし、その他の棋士には羽生はその年8割以上の勝率であり、それもほとんどがタイトル戦といったトッププロ相手の勝負ですので破格の強さであったということは間違いないところです。

 

そのような圧倒的強さの相手にどうやったら勝てるのか。

もちろん、他の棋士も全てが対羽生勝利を目指して考えに考え試合に臨んできたのでしょうがそれでも羽生は負けませんでした。

田中氏の分析によれば、羽生は得意戦法というものを持たずどのような戦法でも変わらずに力をフルに発揮できたそうです。

ただし、その時点ではやや体力不足の面があり長時間の2日制タイトル戦に若干弱いところがあったとか。

また、なぜか関西在住棋士に弱い面があるとも。

あとは、ほとんど冗談ですが、下品な相手には嫌悪感を感じて弱くなるとか、意表をついて対局中に頭を剃り上げて登場するとか。

 

ただし、このような本を参考にした棋士たちもいなかったようで、その後の羽生の戦績は恐るべきものであり、現在でも勝率は7割以上あるようです。

藤井聡太君もすでに一回対戦したようですが、このあとは重要な局面での対局も行われるでしょう。新旧天才棋士の対決が楽しみです。