爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

NATROMの日記で、高価な「先端医療検査」の実態を暴いています。

現役の内科医でありながら、もう長いことネットでニセ医学とも言うべきものの問題点指摘を続けられており、「ニセ医学に騙されないために」という著書も出版されている、NATROMさんのサイト「NATROMの日記」で、まだ研究途上であるのに一部のクリニックで高額な料金で実施されているという、ある先端医療検査についての記事が載っています。

 

d.hatena.ne.jp

それは、「血中エクソソーム内のマイクロRNA検査」と言うもので、ガンの早期発見ができるのではないかという目的で研究が続けられているものですが、それを既に数万から数十万円の対価を取って自由診療で患者に実施している医療機関があるそうです。

 

これを実際に受けたとして、作家の高城剛氏がその体験談を雑誌に書いているわけですが、その内容だけでNATROM氏はこれがまったくのインチキであることを明らかにしています。

 

高城剛氏によれば、マイクロRNA膵臓がんの『ステージ-1(マイナス1)』という状態で、遅くとも1年以内にすい臓がんが発症する確率が9割以上ということを示していたそうである。

引用したこの部分だけで、これが医学的に見せかけただけのインチキであることが分かります。

つまり、「まだ発症していないがん患者が1年以内に発症する確率が9割であるということを実証するためには、少なくとも数千人の事例を見なければ言えないのに、そのような研究を実施したと言う報告はない」からです。

 

地道な研究をさらに続け、これが本当に使い物になるのかどうかを明らかにしていくのは必要なことでしょうが、それを先走って金儲けに使うというのは問題でしょう。

 

なお、「高城剛」という名前には聞き覚えがあるなと思ったら、最近読んだ本の著者でした。

「グレーな本」高城剛著 - 爽風上々のブログ

その時もちょっとこれはという感想を持ったのですが、やっぱりそういう人だったんだ。

 

「数字で読み解く日本史の謎」河合敦著

日本史を見ていると数字というものが目につくという、導入から入ります。

年号はもちろんですが、その他にも江戸の三大改革とか、憲法十七条とか、さらに三管領四職やら六分一殿やら。

 

そういった、「誰でも知っている語句だけどなぜそんなふうに数字を付けて呼ばれるのか」という疑問に解説していこうということです。

 

ただし、全部がそういった方向性で統一されているかというとそれほどでもなく、若干は単に著者の河合さんが書きたいから書いたというエピソードもあったようです。

 

 

☆かつて、十三湊(とさみなと)と呼ばれた大貿易港が青森にあった。

 

これは、詳しくは知りませんでした。鎌倉時代から室町時代にかけて、蝦夷管領に任ぜられた安藤氏の本拠地で、蝦夷から朝鮮までの貿易をしていたそうです。

しかしその後徐々に砂が堆積し、明治以降は完全に繁栄を失いました。

 

四国八十八ヶ所巡礼はいつ始まったか。

 

もちろん、弘法大師の事績の伝説が伝えられており、巡礼も室町時代から行われているのですが、八十八ヶ所と言う場所と順番が決まったのは江戸時代でも中期の正徳年間だそうです。それ以前には94箇所が紹介されているものもあったとか。

 

☆六分一殿とうたわれた山名一族の盛衰

 

室町時代南北朝の争乱が収まったあと急速に力を付けていった守護大名の中でも一族で11カ国の守護職を有した山名一族は「六分一殿」つまり、全国に六分の一を手中にしたのでした。

しかし、山名時義が没した時を好機とし、足利義満が一気にその勢力を駆逐したのでした。

 

まあ、いろいろな歴史の知識を取り入れることはできました。

 

数字で読み解く日本史の謎

数字で読み解く日本史の謎

 

 

 

相撲人気に水を差す休場力士の増加

二ヶ月に一度の大相撲は、年寄りにとっては大きな楽しみです。

会社勤めの頃は考えられなかったのですが、毎日午後4時から6時までと言う時間に次々と取り組みが放映され、見ることができます。

目を離せないのも3分に一度くらい、あっという間に勝負が付きますので集中力もさほど必要でなく、トイレにも随時行くことができます。

 

しかし、今場所はどうしたことでしょうか。

横綱のうち、3人までもが初日から休場、さらに人気の大関の高安や、注目の若手の宇良までもが早くも休場となってしまいました。

がっかりしていまします。

 

テレビの解説者によれば、力士が体重が重い方が有利ということであまりにも増やしすぎ、特に下半身に障害が出やすいのだとか。

 

それもあるのでしょうが、素人目に見てもあまりにも危険なのがあの土俵の構造でしょう。

 

俵で区切られたプレーゾーンの外側にはわずかなスペースがあるだけで、その先は数十センチも低くなっているわけです。

土俵内だけで勝負のつくことは少なく、大抵の場合は土俵の下まで落下してしまいます。

この落下による負傷も多いのではないかと思います。

 

あんな危険な構造にしなくても十分楽しめるのでは。

 

土俵は平面状にすること。

土俵の外側には十分にスペースを取り、客は近くには入れない。勝負審判だけは仕方ないので座らせても、それ以外はクッションを置き倒れ込んでも大丈夫なようにする。

 

以上、少しでも力士の怪我を防ぎたい一念での提案でした。

 

「西アジアの歴史 聖書とコーラン 新書東洋史9」小玉新次郎著

講談社現代新書で「新書東洋史」というシリーズで発売されたものの第9巻で、中東を扱ったものです。

1977年出版ということで、実に40年までの本であり現在までには相当な変化もあったと思います。

 

この時期はまだまだ西アジアと言う地域についての日本人の認識は乏しいものでした。

それが、直前に石油危機というものが起き、実際に中東からの輸入石油が高騰したということで、ようやく日本とのつながりも実感されたという段階だったのでしょう。

 

本書題名の副題にもあるように「聖書とコーラン」実に現在の世界の大宗教の2つはこの地域に発祥します。

また、いわゆる古代の四大文明のうち2つ、メソポタミアとエジプト(アフリカですが文明圏ではここに入ります。なお、インダスも関係が深いものです)もこの地域です。

 

西アジアと言う地域は、東はイラン高原から西はエジプトまで、北はアナトリアから南はアラビア半島までとしています。

ただし、時代によっては西北インドバルカン半島の一部まで含みました。

この地域の真中には東西を二分するようにザグロス山脈がそびえています。

3000m級の山々の連なるこの山脈の東はイラン高原、西はメソポタミアと別れており、歴史上でもこの境目は大きな意味を持ってきました。

 

メソポタミアでは今から9000年前に定住して農業を行なった遺跡が発見されていますが、それが文明化していたかどうかは分かりません。

5000年前になり、シュメル人が文字を作り出したことにより、ようやく文明の証拠が出揃いました。

この文明が各地に伝わり、エジプトやインダス、黄河の文明に影響を与えたと見られます。(このあたり、新しい発見ではそれより遡る文明も各地にあったようですが、本書の時点ではこう判断されました)

 

その後、統一王朝から、大帝国と発展していきます。

 

その傍らで、少民族のイスラエル人がユダヤ教を作り出します。それはその後キリスト教の発生を促します。

さらに、その影響下にアラビア人がイスラム教を作り出します。それが現在に至るまで世界中に広まってしまいました。

 

アケメネス朝ペルシア帝国、アレキサンダーによるヘレニズムと、まさに当時の世界帝国と呼ぶにふさわしい国が作られました。

その後はローマ帝国の発展で重心がヨーロッパに移ったかのように見えますが、実際は中東に大きな力が存在していました。

 

イスラム教の発生と、イスラム帝国の発展と言うのも西アジア一帯の大きなニュースだったようです。

ウマイヤ朝アッバス朝と続き、モンゴルの支配の後は最大の帝国であったオスマン・トルコが続きます。

しかし、ちょうどヨーロッパの強国の隆盛時期にあたりオスマン・トルコが凋落、周辺部を次々と植民地として奪われることになっていましました。

 

どういった偶然なのか、石油の大産出地がこの地域であるということから、現代の世界の動きの震源地ともなっています。

 

これだけの大きな意味を持つ地域の歴史を新書版でまとめるという、大変な本です。一冊読むだけで知ったつもりになれるとは言えませんが、入門には最適でした。

 

新書東洋史〈9〉西アジアの歴史 (講談社現代新書)

新書東洋史〈9〉西アジアの歴史 (講談社現代新書)

 

 

「高度成長 シリーズ日本近現代史8」武田晴人著

岩波新書から出ている、シリーズ日本近現代史の全10巻の第8巻です。

 

このシリーズは幕末維新からポスト戦後社会という現代までを扱っており、この「高度成長」は戦後の混乱がようやく収まった1955年から、高度成長が石油危機などで終わった1980年頃までを対象としています。

 

著者は歴史学者ではなく、東京大学経済学部教授で、経済史が専門の武田さんということで、やはり歴史というよりは経済の時代だったのかという感想を持ったのですが、あとがきにも書かれているように、武田さん自身もそのつもりで依頼を受けたら経済だけじゃダメと却下され、仕方なく?政治史や社会史も入れて書いたということです。

 

「経済成長」という言葉自体、使われだしたのは1955年あたりだったようです。

戦後の焼け野原からの復興は経済などということを考える余裕もなかったのでしょうが、ようやくこの時期になって国としても経済全体を考えなければならないということに気づきました。

経済成長を議論するためには、国民所得というものを認識しなければなりませんが、国の経済政策担当者がこのようなマクロ経済学に着目しだしたのもこの時期だったようです。

 

ただし、その内容は国民にはまったく理解できず、その後「所得倍増計画」が公表された時も「国民所得」という概念が分からなかったために「賃金が二倍になる」と誤認されたそうです。

 

せっかく著者が入れた政治史・社会史の部分ですが、割愛し経済史のみを見ていきます。

1955年、当時の鳩山一郎内閣は「経済の自立を達成し、年々増加する労働力人口に十分な雇用を生み出す」ことを目標にします。

当初の成長率目標は5%でしたが、それすら高すぎるという批判を受けました。

しかし、戦争特需からの脱却を産業構造の重化学工業化による輸出拡大という方向で成し遂げるという姿勢は一貫していました。

ついで、池田内閣が政策の基本としたのが「国民所得倍増計画」でした。

ここでは鳩山内閣よりさらに高い成長率年7.2%が設定されました。

しかし、当初こそ国民の期待を集めることはできたものの、すぐにその限界が露呈します。

国民所得が増加すれば消費者物価も上がることになります。その他の成長のひずみというものも表れてきます。

産業構造も、以前の繊維産業の安価な製品輸出というものに対する諸外国からの反発が強くなり、その方向での成長は不可能となりました。

そこで出てきたのが石油化学工業への転換でした。

エチレンや合成ゴムなどが急成長し、さらにプラスチック工業が興隆しました。

また、機械工業も自動車や家庭電器が発達しました。

 

その路線も大きな問題をすぐに露呈します。

機械工業では自社ですべてを担う方式は取れず多くの下請け中小企業を抱えることになりました。

しかし、そちらへの十分な支払いができないために中小企業は安定せず雇用者への賃金も低く抑えられました。

また石油化学工業は特に公害という問題を引き起こします。

先行する大きな公害問題(水俣病等)は石油化学ではないものの、各地で大気汚染や水質悪化を起こしました。

 

このような産業構造改革というところから来た経済の高度成長は、あっという間に壁に突き当たります。

貿易の相手国からの反発も強まり、日本経済の外国への開放という問題が出てきます。

考えてみれば当然でしょう。いつまでも保護経済のままの高度成長など許されるはずもありません。

 

さらに、二度の石油危機で原油価格が大きく上昇しました。世界全体の経済構造が変わってきたことになるのですが、そこで日本経済も大きく質を変えなければならなくなりました。

しかし、そこで起きたのが「狂乱物価」という消費者物価の急激な上昇でした。

さらに、そこに相も変わらぬ政治の腐敗「金権政治」というものが露呈します。

政治に対する不信感が強まり、野党側の力が強まるということになります。

 

そして、本書の最後はプラザ合意でまた新たな国際的経済の枠組みができたというところで締めくくられます。

 

本書で書かれている時代は、ちょうど私自身が生まれてから大学を卒業し社会人となったというあたりまでに当たります。

最初の頃は子供で何も分かりませんでしたが、中学高校と成長していった時代は本書後半の混乱した時代と重なります。懐かしさとともに、苦いものも感じてしまいます。

 

高度成長―シリーズ日本近現代史〈8〉 (岩波新書)

高度成長―シリーズ日本近現代史〈8〉 (岩波新書)

 

 このブログの他の項で、日本の経済成長はエネルギー利用の増大と密接に関わる(というか、ただそれだけ)と書いたことがあります。

この詳しい本を読んでもその印象は同様でした。

 

「古代の福岡 アクロス福岡文化誌3」アクロス福岡文化誌編纂委員会編

アクロス福岡とは、1995年に旧福岡県庁の跡地に公民複合で建設された施設で、国際・文化交流を目的としているそうですが、文化事業もやっているそうで、文化誌編纂も3冊目となるようです。

そのためか、実際に執筆された方々の顔ぶれを見ても福岡県庁の文化財保護課や各市町村の教育委員会の所属ということで、地元の歴史的遺物にも非常に詳しいということは想像できます。

 

福岡は古代には文句なしに大陸からの文化流入の最先端の場所であり、今でも多くの遺跡から新たな発見が相次ぐというところです。

邪馬台国の所在地こそ近畿地方と争い、その後の歴史では大和に中央の座を譲りますが、歴史的重要性は非常に大きいところです。

そのような福岡の古代というものを、旧石器時代縄文時代から大和政権下で大宰府が「遠の朝廷」(とおのみかど)と称された時代までを、豊富な写真とともに見せてくれます。

 

まあ、大学の研究者のように独自の理論を打ち出すということもないでしょうから、少し面白みは欠けるかもしれませんが、一応現代の歴史学界の主流派的解釈は見ることができます。

 

氷河期末期には現在の海水面より120mくらいは海面が低下していたと見られます。

現在の対馬海峡はそれよりは深いのですが、陸橋もしくは氷床ができていた可能性はあり、そこを通って人間だけでなく動物も大陸から九州へ移動してきたのかもしれません。

今から2万5千年前の石器が福岡県内でも各種発見されています。

1万3千年前の縄文時代に入ると、温暖化して海水面が上昇し今とほぼおなじ地形になります。

当時の土器なども数多く出土していますが、割合は低いものの朝鮮半島と共通の土器や装飾品も含まれており、この時代にも何らかの交流があったと言えそうです。

 

縄文時代末期には稲作も開始されていたということが、福岡周辺の遺跡から分かります。

佐賀県唐津市の菜畑遺跡からは水田跡と炭化米、木製農具、石器が出土しています。それらは朝鮮南部のものと酷似しているそうです。

当時の遺跡から発掘される人骨を見ても、朝鮮半島南部のものと似ており、渡来してきた人々が稲作を始めたと見られます。

 

魏志倭人伝でも伊都国、奴国の記述がありますが、それぞれ最盛期というものは少し前の時代であり広い範囲に及んでいたことが遺跡の遺物から分かるようです。

三世紀中頃に築かれた、那珂八幡古墳は奴国の首都であったと考えられる那珂にあり、福岡県最古の古墳と考えられています。

奴国の首長のものと考えられますが、当時のヤマト政権との関係も考えられます。

 

邪馬台国に関する部分は、九州歴史資料館館長の西谷正さんが書いていますが、その所在地のみを記すわけではなく、それ以前の諸国の様子と変遷に触れています。

邪馬台国に至る前の時代、北九州のイト・ナといった国々は中国からの影響を受け先進的な体制を構築していました。

中国の冊封体制にも組み込まれており定期的に朝見をしていたようです。

当時はまだ近畿地方には個人墓の大規模な物は見られず、国としての体制が遅れていたようです。

その当時の北部九州系の青銅器は東北地方南部まで到達しておりその広がりは大きいものでした。

邪馬台国がどこにあったにせよ、それを支えたのはイトやナといった北部九州の国であったろうとしています。

 

やはり古代を語るには福岡というところ抜きでは無理でしょう。

 

古代の福岡 (アクロス福岡文化誌)

古代の福岡 (アクロス福岡文化誌)

 

 

「外来種は本当に悪者か?」フレッド・ピアス著

環境保護、自然生態というと人間の手の入らなかった頃の本来の環境に戻すのが当然というのが多くの人の観念であろうと思います。

 

その点について大きな疑問を投げかけたのがこの本で、なんと巻末の解説は自然保護派とも言うべき慶応大学名誉教授の岸由二さんが書いていますが、「現代生態学の核心的なテーマを扱う不思議な本が登場した」と言っています。

岸さんの解説は、続けて「古い生態学の中心概念と思われていた生物群集を重視する生態学全体論哲学に貫かれていた。撹乱されることなく保持された手付かずの生態系は、遷移という歴史法則によって”極相”という完成形に至る」

「その理解からすれば、生態系から離脱した外来種はバランスを喪失する。外来種によって撹乱される生態系も混乱を生じ崩壊することもあるというのが中世的と言える生態系理解であり、その下では守るべき価値のある自然は在来種のみである。」

「しかしビアス外来種がみごとな安定性を示す生態系を作ることを示し、外来種がうまく相互適応する方が普通なのだと書いている」

としています。

 

岸さんは本書のビアスの主張には批判を持っていますが、しかし現状の「手付かずの自然絶対」という中世的自然保護論にも組みしていないということです。

それでは、その問題の書の概略を見ていきます。

 

本書はまず、南大西洋アセンション島の自然について記しています。

アセンション島にはわずかな住民と軍関係者が住むのみで、ほとんどが原始林で覆われているようです。

しかし、これら太古のままの自然のように見えるものは、ほとんどすべてが外来生物だということです。

1836年にビーグル号が寄港した時には、この島はほとんど丸裸でした。その後イギリス軍が守備隊を置き、彼らが持ち込んだ動植物が原始林のように見える自然を再構築してしまったのです。

 

ヨーロッパ人による新大陸の発見という出来事はその後の両大陸の動植物の大規模な交代をもたらしました。

人間の移動に付随したり、気まぐれで持ち込まれた外来種というものには厳しい見方がされても、食料や有用品になる動植物の移動はあまり批判されてはいないようです。

ジャガイモやトウモロコシ、トマトは旧大陸の食料供給に役立ち、アメリカに持ち込まれた家畜は重要でした。ヨーロッパ種の牛にやるにはヨーロッパの牧草がよいということで、牧草までもが持ち込まれました。

アメリカ大陸にはヨーロッパ人がやってくるまではミミズもいなかったそうです。最後の氷河期の氷河の動きが激しすぎて土壌ごと削り取られてしまったのです。

そのため、アメリカの森には落ち葉が厚く積もっていました。それがミミズの繁殖により無くなってしまい、サンショウウオや鳥の一部が絶滅したそうです。

 

新大陸発見後はアメリカもヨーロッパもどちらの自然?も外来種により大きく変化してしまいました。

しかし、ヨーロッパ人が入り込む前のアメリカが自然そのままであったということではありません。

それ以前にアジアから人々が渡ってきた時からすでにそれ以前の自然とは違うものに作り変えられているのです。

 

熱帯のジャングルでも、大洋の中の離れ小島でも、人間の影響のない自然というものは実はほとんど存在していないのです。

 

それを知らずに、ほんのわずか前までの自然があたかも「手付かずの自然」のように思い込み、それ以降に入ってきた「外来種」を目の敵にするいわゆる「自然保護」派が数多く存在しています。

 

イギリスにイタドリが持ち込まれたのは、観賞用としてでした。

日本ではそれほど繁茂するというほどではなかったのですが、イギリスでは対抗する植物が乏しいためか街中に広がっているところもあるようです。

ウェールズ南部のスウォンジーという町は特にイタドリが繁茂していて他の植物が見られないほどだそうです。

しかし、これもどうやらイタドリ自体が問題ではなく、土地の産業(銅鉱山)が衰退し土壌も荒廃してしまったためにそういった土壌に強いイタドリが繁茂しやすくなっただけのようです。

そのイタドリ繁殖を「生態系を損ない、生物多様性を低下させる」として駆除しようとしています。そのための予算が年間300万ドル。

イタドリ自体、それほど有害なものではなく、日本では食用にもしています。なぜそれほどまでに金を掛けてまで駆除しなければならないのか。

「アメリカでは日系人が湯がいて食べる。私達も試してみる価値はありそうだ」としています。

 

外来種駆除のために、生物的防御(いわゆる天敵防除)が実施されることもあります。

しかし、サボテンの一種オプンティア・モナカンタを駆除するためにアルゼンチンマダラメイガを使ったカリブ海の国々ではガが増えすぎてアメリカまで広がってしまいました。

サトウキビの害虫防除にオオヒキガエルを導入したオーストラリアでは、放されたヒキガエルは害虫など見向きもせずに畑から出て他の虫や小動物、はてはクロコダイルまで襲うようになりました。

 

どうも、「外来種の無かった手付かずの自然」などというものはこれまでも存在しなかったようです。

それでもそういった自然を取り戻したいと言って活動している人たちが多くいます。

彼らはいったいどこまで古い時代に戻りたいのでしょうか。

自然保護派の好きなイギリスの湿地帯ができたのは5000年前の初期農業の時代です。それ以前はイギリス全体は氷河に覆われていました。

オランダでは北海を干拓してつくった湿地帯を自然に返すことにしました。つまり堤防を開けて海に戻すということです。

アメリカではバイソン復活の努力が続けられています。しかし単に農場で飼育されているのと同様で、しかも「バイソン・バーガー」が売りというのでは、ただの牧畜業です。

 

自然が破壊されているのは間違いのないことでしょう。しかし、どのような自然に戻すのが良いのかということは、簡単なことではないようです。

 

外来種は本当に悪者か? 新しい野生 THE NEW WILD

外来種は本当に悪者か? 新しい野生 THE NEW WILD

 

 確かに、日本の湖などでブラックバスが放され在来種を食べるという被害があるのは事実でしょうが、ことさらに「外来種」排斥というのも何か疑問を感じていました。

まあ、何でも放っておくということではないのでしょうが、よく考えなければいけないところでしょう。

それにしても、最大の「外来種」であり、最大の「環境破壊者」は間違いなく人類です。なにしろホモ・サピエンスは5万年前にはアフリカ以外にはいなかったのですから。