爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「だまし犯罪百科」間川清著

オレオレ詐欺といった特殊詐欺と言われる犯罪の被害は減るどころかいつまでも増え続けているようです。

その被害者のほとんどは高齢者ですが、ニュースなどで被害事例が報道されてもいつもの「母さんオレオレ」だろうくらいの認識であり、実際に現在の最新の劇場型詐欺グループからの電話などがあればひとたまりもなく引っかかってしまうようです。

 

そのように、被害者となりやすい高齢者たちと、犯罪者側の情報量の違いは歴然としたものです。

こういった犯罪被害を少しでも減らしたいという思いで、弁護士の間川さんがこれまでに扱った事例をできるだけ分かりやすいように名前まで入れた物語風に作った読み物としてまとめたものが本書です。

 

なお、オレオレ詐欺などの特殊詐欺ばかりでなく、従来からある伝統的?詐欺から、よく起こりがちな相続をめぐるトラブル、近所のトラブル、金融投資や生命保険など犯罪ではないものも含まれています。

いずれにせよ、そういった犯罪やトラブルの実例というものに疎い高齢者に参考となればということで書かれています。

 

多くの例がのせられていますが、中でも特に気をつけたいものだけ紹介ししておきます。

 

まったく利用した記憶のないネットサイトの利用料金の督促をされたという事例は数多くありますので、Hさんは裁判所からの特別送達の封書もそれだと思い放っておきました。

すると、続いて「仮執行宣言付き支払督促」が送られてきました。

架空請求のほとんどは、裁判上の手続きに見せかけて法律上の効果のない手続きをするのですが、中には本当に正式な手続きをする架空請求もあるそうです。

これには弁護士などに力を借りて異議申し立てをしなければならないということです。

なお、そのような架空請求なのになぜ裁判所が認めるのか?という疑問も湧きますが、裁判所はあくまでも「裁判を始める」ということを通知するだけなので、それが架空請求であっても可能なのだそうです。

 

テレビでよくCMの流れる「誰でも入れる保険」に以前から高血圧で治療していた50歳のMさんは加入しました。

しかしその数年後に高血圧が原因とされる心臓病になり手術をしました。それを保険会社に通知した所、加入時の持病による手術等には保険は支払えないと言われたということです。

「誰でも入れる保険」は「誰にでも支払われる」わけではないということです。

 

このような事例が世の中には溢れているようです。知らなければいつ自分にも降りかからないとも言えません。何事も知識が大切ということでしょう。

ただし、本当にこういった知識の必要な高齢者はこんな本読まないだろうな。

 まあ、高齢者を身内に持つ子供世代が勉強して活かすことでしょう。

だまし犯罪百科 ―巧妙な話術と手口の全貌

だまし犯罪百科 ―巧妙な話術と手口の全貌

 

 

 

 

「日本人はどこから来たのか?」海部陽介著

著者の海部さんは国立科学博物館で人類史を研究していらっしゃいますが、台湾から沖縄へ古代の舟で渡るという実験を企画したということでニュースにもなりました。

その実験も、この本も現生人類がアフリカで生まれそこから世界中へ広がっていった過程を明らかにしたいという思いから為されたものです。

 

「日本人の起源」といった題材は他の本でも数多く論じられていますが、縄文人弥生人の二重構造説などと言ってもやはり日本国内だけか、せいぜい東アジアの事例が研究されているだけのようです。

人類全体の移動の様子を再現するには世界的に遺跡・遺物の検討をする必要があるということでしょう。

 

アフリカで生まれた現生人類ホモ・サピエンスの祖先はその後約10万年ほど前にアフリカを出ました。

その後、徐々に広がって行きその過程であちこちに分散してその環境に適応し、様々な形態の特徴もできていき、それが現在の人種の分布につながっているという印象を持っていました。

しかし、どうやらそのイメージは実際とは大きく異なっているようです。

 

特に欧米の研究者の間で常識のようになっているのが、「海岸移住説」というものです。

ホモ・サピエンスの最初のユーラシア進出はアジア南端の海岸沿いにオーストラリアまで至るというものだったとしています。内陸への進出はそれよりはるかに遅れて起きたということです。

 

しかし、著者が各地の遺跡の年代のはっきりしているものを精査した所、まったく異なる様相が見えてきました。

それらの遺跡の年代はほとんどが4万8000年から4万5000年前までに含まれており、徐々に広まったような跡も見られなければ、それに先行して海岸沿いに広がったということも無いようなのです。

つまり、ホモ・サピエンスは4万8000年前まではほとんどがシナイ半島付近に居て、その後3000年くらいの間にアジア大陸の南ルート、北ルート、そしてヨーロッパへの拡散が同時に起こっているようなのです。

そして、オーストラリアへの到達もほぼ同時期、東アジアへの到達はやや遅れるようですが、シベリア方面の寒冷地へも達していました。

 

日本列島を見れば、その遺跡の年代の確実なものを整理すると3万8000年前より以前には人類遺跡は見当たらず、その時期に突如爆発的に現れるようです。

つまり、その前の時期までに日本列島への入り口まで達していた人類が一挙に列島に渡って来たと見られるのです。

その時期はまだかなり寒冷な気候であったために、海面も現在よりは相当下がっていました。

それでも対馬海峡は今よりはかなり狭いものの確実に存在しており、台湾から沖縄の間には100kmに及ぶ海面が隔てていました。

 

つまり、その時期の人類はすでに航海術を持っていたということです。

対馬海峡ではただ一度渡ってきただけではなく、何度も往復していることが遺物からも推測できるそうです。

 

3ルートそれぞれから渡ってきた人々は、遺伝的にはすでにかなり隔たった人々でした。

しかし、彼らはもともとのスタート時には近い関係だったわけです。それがヒマラヤの北と南に分かれて東進したためにかなり異なる形態となっていました。それが約1万年の後に東アジアで再び巡り合ったとも言えます。

そしてそこで混血も進みました。

 

対馬ルートから入ってきた人々は縄文時代まで続いていると考えられます。つまり縄文人と言われているのはその人々だということです。

その後、弥生時代にかけて大陸からさらに渡来した人々が多く、その人々も日本人の祖先となりました。

これらの歴史をまとめた文が本書最後に掲げられています。

 

かつてアジア南北のルートを別々にたどり、それぞれ違う困難をくぐり抜けてきた兄弟姉妹が、再会を遂げた舞台の1つ。それが後期旧石器時代の日本列島であった。ただし、西アジアで別れてから既に1万年の時が経過しており、再会した彼ら自身は、互いが血を分けた兄弟姉妹であることに気づきようがなかった。

その後、大陸からの新たな渡来民や列島内での移住を経て当初の集団構造は変化していった。それでも偉大な旅を続けてきた旧石器時代の祖先たちの血は今もこの列島の私達の中に様々な形で継承されている。

こういった見方というものが大事なものと感じます。

 

日本人はどこから来たのか?

日本人はどこから来たのか?

 

 

 

「権力に抗った薩摩人 薩摩藩政時代の真宗弾圧とかくれ念佛」芳即正著

著者のお名前は「かんばし・のりまさ」と読みます。

鹿児島県の高校校長や短大教授などを歴任、尚古集成館の館長も勤められました。

 

江戸時代にキリスト教を禁制とし、そのため「隠れ切支丹」という人たちが居たということはよく知られていることですが、島津藩の薩摩ではキリスト教以外にも浄土真宗も厳しく弾圧されていました。

そのために、「かくれ念佛」といった人々が生まれました。

 

家の中に仏像を置きそこで念仏を唱えていると、土地の役人に知られてしまうかもしれません。

そのため、お墓参りをして墓地で念仏を唱えるということが多かったそうです。

他の土地と比べてお墓参りに出かけるということが異常に多くなりました。

また、お墓参りの際に持参するということで、切り花の販売額も全国的に見てもかなり多く日本一だそうです。

 

 

薩摩藩真宗一向宗)を禁止した時期やその理由というものは、諸説あってはっきりしていないそうです。

いつからともなく始まったものの、厳しく取り締まったということははっきりしているようで、数々の記録には残っています。

 

禁制の始まりとしての説の中で大きなところでは、伊集院幸侃事件というものがあったそうです。

伊集院幸侃(忠棟)は島津の一族でしたが、本家に反抗したということで島津家久に手打ちにされました。江戸時代初期のことです。

忠棟は豊臣秀吉九州征伐の際、秀吉に内通して島津の降伏を推進しました。その恩賞として大隅を領地として貰ったのですが、秀吉死後に本家に殺されました。

この忠棟が真宗信者だったということです。

 

また、秀吉侵攻の際に鹿児島県出水郡真宗信者が秀吉に寝返り、それが島津降伏の理由となったので真宗信者の排斥につながったということも信じられています。

 

1597年に島津義弘真宗を禁制としたということは事実のようで記録が残っています。ただし、その文書の中で義弘は「先祖以来の禁制の儀」と書いており、自分が始めたのではなく祖父の島津忠良が始めたとしています。

 

しかし、やはり秀吉の島津征伐の際に真宗信者が裏切り秀吉に内通したということが、その後の真宗禁制につながったのではと著者は見ています。

 

その後、真宗信者の摘発は非常に厳しく行われ、死刑や遠島などに処されたという記録は多数残っており、多くは地方在住の郷士や百姓であったようです。

幕末の天保時代に大掛かりな摘発が行われた時には、信徒14万人が罰せられたという記録がありますが、その時代の薩摩藩総人口が80万人程度の頃ですから、非常に多くの人々が隠れ真宗信者であったということです。

 

彼らは一人一人がばらばらに真宗を信じていたのではなく、潜伏組織を作っていました。

これは隠れ切支丹と同様のもので、信者を指導し組織する系統ができており地域の中に根強く残っていったものでした。

 

明治になり、真宗禁止の規制はなくなりました。

それと同時期に廃仏毀釈というものが全国的に行われたのですが、鹿児島県ではそれが徹底的であったことが知られています。

真宗信者たちはそもそも江戸時代には寺を持っていませんでした。鹿児島に存在した寺院はすべて他宗のものでしたので、真宗信者たちはそれらを破壊することに何の反対もせずに喜んで行なったからのようです。

 

鹿児島では今でも封建的な風土と言われていますが、その中で島津藩のお上の禁制に激しく抵抗したのも民衆であるというのは特記すべきというのが著者のまとめでした。

 

権力に抗った薩摩人 (南方ブックレット1)

権力に抗った薩摩人 (南方ブックレット1)

 

 

 

 

「ゲノム革命 -ヒト起源の真実-」ユージン・E・ハリス著

著者は化石の形態観察という方法で進化をたどるという分野から研究を始めたものの、遺伝子解析による霊長類起源探求という方向に転換しその草分けの一人となったという研究者です。

その最先端の研究者が一般向けにゲノム解析による霊長類進化の過程の解明状況を解説するという、日本ではなかなか見られないような本になっています。

 

系統樹」というものが様々な生物種について作られています。

ヒトはどうなっているかと言えば、キツネザルやメガネザルははるか昔に分離し、比較的新しい時代にチンパンジーやゴリラと分かれたということになっています。

 

しかし、チンパンジーとゴリラとどちらがヒトと近縁なのか(分かれた時期が新しいか)ということは諸説がありなかなか定まっていませんでした。

 

著者が学生であった1990年代、まだ化石などから解剖学的特徴を調べて比較する方が主流で、遺伝学は始まってはいたもののまだ正確なことは何も言えない状況でした。

その後、DNAの研究は爆発的に進歩していきます。

最初はミトコンドリアDNAの比較といったところからスタートします。

しかし、ミトコンドリアは母子伝達しかしないといった欠点もありなかなか使いづらいものでした。

さらにDNA-DNAハイブリダイゼーションといった手法も使われますが、遺伝的な意味が問われるわけではなく、核心に到達するには至りません。

 

しかし、遺伝子のすべてを解析するという手法が可能となると、DNAの中で遺伝子として意味のある部分を比較するということもできるようになります。

これで、近縁の生物種の比較ということも簡単にできるようになると期待されたようです。

 

具体的には、現在の生物種どうしの間でのDNAの差異というものは、その種が分離したあとに起きた遺伝子変異によるものであり、それがどこに見られるかということを調べればその時期も推定できるという考え方です。

しかし、変異が何度も起きていることは分かってもその順序が特定できないということが多数あったようです。

その結果、遺伝子の解析から作られた「遺伝子系統樹」というものは、本来の「種系統樹」というものとは同じではなく、様々な「遺伝子系統樹」ができる可能性があり、それをすべて合わせてようやく「種系統樹」に到達できるようなものであるということが分かってきました。

そして、遺伝子系統樹の不一致の仕組みというものが明らかになってきたことから、それらを使って最適モデルを推定するという方法論も開発されてきました。

ただし、それらもまだまだ研究発展段階だそうです。

 

ヒトだけでなく、ボノボやオランウータンなども完全なゲノム配列の決定がなされています。

ヒトゲノムとこれらの動物のゲノムがどの程度似ているかということを調べる研究もなされていますが、ヒトゲノムの3%はチンパンジーよりははるか昔に分かれたボノボに近いそうです。

さらに、ヒトゲノムの1%は1300万年前に分かれたオランウータンに近いものでした。

 

進化の過程でこのような集団がどうやって独立してきたかを考える際に考慮すべきなのが、その生物集団がどのくらいの大きさかということです。

これはその時の総人口ではなく、「生殖に関わることができた個体数」を用いるのが普通であり、それを「有効個体数」と言います。

この数値は現在の世界人口からすると驚くべきものですが、わずか約1万であるということです。

これは他の生物種と比べても非常に小さいものであり、ヒトとチンパンジーの共通祖先は数万から十万程度と見積もられるそうです。

 

こういった過去の人口の推定は、現在生きている人間のDNAの差異の程度を測るということで行われます。

世界中のヒトのDNA差異というものを調べてもそれほど多くないということです。

つまり、歴史上の極めて近い過去に相当少ない状態になったということのようです。

特に、ミトコンドリアの多様性がきわめて小さい。すなわち限られた女性からすべての現代の人類は由来するということです。

 

このような、有効個体数が小さいということの現れとしては病気に対する罹りやすさというものが皆共通というところにも表れてきます。

ヒトに多い病気のアルツハイマー、リウマチ性関節炎、子宮内膜症心筋梗塞HIV感染、上皮癌というものは、チンパンジーはほとんど罹らないそうです。ヒトというのはこういった病気に罹りやすいという遺伝子がすべてに蔓延してしまったようです。

 

このような、ゲノム解析と進化の研究というものは非常に急速な進歩を遂げてきましたが、まだまだやるべきことは無数に残っているようです。

ただし、いろいろな情報が得られたとしてもそれは一面からの見方であり、遺伝子だけからみても様々な方面からの解釈が可能であり簡単に言えるものではないようです。

 

ネアンデルタール人やデニソワ人など、「消えてしまったいとこたち」のエピソードも興味深いものでした。

ネアンデルタール人などの化石からのDNAの抽出と分析ということもかなり行われてくるようになりました。

そのDNA配列を調べていくと、現在のヨーロッパ人とアジア人には5%、10%といった程度のネアンデルタール人由来のDNAが含まれているそうです。

これは、ネアンデルタール人との交雑がいずれかの場所・時代に行われたことを示しています。

ただし、アフリカ人にはこれが含まれていない。すなわち、ヨーロッパ人とアジア人の共通祖先がアフリカを出た後、いずれかの場所で交雑したということのようです。

 

非常に興味深く、しかも最新に近い研究業績の紹介でした。

しかし、「一般人の誰にでも分かりやすく」というのは少し無理かな。

 

ゲノム革命―ヒト起源の真実―

ゲノム革命―ヒト起源の真実―

 

 

「波よ鎮まれ 尖閣への視座」沖縄タイムス「尖閣」取材班編

石原東京都知事尖閣諸島購入を打ち上げ、それに慌てた民主党政権が国有化を進めたことで、中国や台湾の猛反発を食ったのが2012年ですが、そのような動きが地元の意向を無視した対応であるとして、沖縄の新聞社沖縄タイムス尖閣諸島の地元と言うべき石垣市や台湾を取材し、多くの人々のインタビューを行なったそうです。

その声をまとめて本としました。

 

1879年に琉球処分沖縄県を設置しました。

1895年には日清戦争勝利、台湾とその付属島嶼を日本領とします。

その結果、尖閣諸島はどちらの所領ということもなく沖縄も台湾も日本であるということになりました。

その当時は国内ということで石垣などの住民と台湾の住民は相互に移住して農業や漁業に従事するなど、交流していたそうです。

1945年に日本が敗戦した後も、沖縄は形だけは琉球政府となり、アメリカ軍の施政下に入りました。

1970年にはアメリカ軍施政下の琉球政府が「領土権声明」を発表、尖閣諸島領有を宣言しました。それに対し台湾も中国も領有権を主張しました。

1972年、沖縄が日本に返還。尖閣諸島も日本政府が領有権を主張

1978年、鄧小平中国副首相が尖閣諸島問題の棚上げを表明、日本も同調しました。

2010年、石垣市長に保守派の中山義隆が当選、その後尖閣諸島領有権主張が強まります。

2012年、石原東京都知事尖閣諸島購入を表明。

同年9月、日本政府が尖閣諸島国有化。中国各地で反日デモ

2013年、日台漁業協定発効

 

地元の多くの方が話しているように、戦前の同じ国の中であった時代はもちろん、その後も先島地方(宮古八重山)と台湾の人々との交流は深く、それが国の政策に振り回されて互いに近づけないようにされてしまったということです。

尖閣諸島周辺の海域は台湾漁民にとっては貴重な漁場であったそうです。

台湾は中国と比べてもはるかに入り込める漁場が少なく、漁民も零細であるために大型船で遠洋漁業に出ることもできず、近海の漁場に入れないのは困るということです。

 

石垣市や台湾の地元の方々、特に漁業関係者は領土問題などは触れたくないようです。それよりもとにかく協同でよいから漁場を利用したいという希望があります。

なお、台湾漁業者も漁業資源の保護ということには関心はあるものの、組織が弱体であるために規制が難しいようです。これも日本と協同で節度ある漁業ができれば良いという意見があります。

 

領土は一片たりとも渡せないという主張が双方で高まると、肝心の地元の人々の漁業などの操業が著しく困難になるようです。

歴史的に見ても共同利用といった時期のほうが長かったようです。そのあたりで妥協できれば良いのでしょう。

 

波よ鎮まれ (尖閣への視座)

波よ鎮まれ (尖閣への視座)

 

 

”賀茂川耕助のブログ”を読んで No.1195 日本が牛耳られる日

今回の「賀茂川耕助のブログ」で取り上げられているのは、その題名とどういう関係にあるのか少し分かりにくいのですが、「アマゾン・ドット・コムがアメリカの自然食品スーパーのホールフーズマーケットを買収したというものです。

 

kamogawakosuke.info

アマゾンはインターネット通販の会社というイメージが強いでしょうが、実はIT関係のインフラ提供者でもあり、CIAともつながりがあることが分かっています。

賀茂川さんは、ホールフーズマーケットの顧客は有機栽培食品やフェアトレード商品を好む人が多いということで、それはアメリカ政府の農業医療健康分野の政策に反対する人々でもあり、彼らの個人情報を分析する目的もあるのではと推論しています。

 

普通であれば、こんなの考え過ぎと言うべきところなのですが、どこまで拡大が続くか分からない企業を見ていれば、その恐れが無いとは言えないという気になってしまいます。

 

日本でも様々な方面でこういった超大企業の支配の手が伸びてくる日がこないとも限りません。あるいは既に始まっているのかもしれません。

もしも葉緑体が無かったら、生命の星地球は無かったかも

今ちょうど「森を食べる植物」という本を読んでいまして、(読み終えたら書評を書きますが)そこでは、葉緑体を失った”腐生植物”というものを扱っていました。

森を食べる植物 - 岩波書店

これは、自ら葉緑体光合成を行うという働きを放棄して、森のなかでカビやキノコの菌糸を栄養源として生きていく道を選択した図々しい?植物です。

もはや葉も失っていますので、花が咲いていない時には茎が伸びているだけであり、ほとんど見ても分からないために未だに知られていない新種も数多く存在するかもと言われているそうです。

 

まあ、この腐生植物は周囲に十分な量の栄養源としての菌類などがあったためにそういった方向に進化していったのですが、ここで「もしも光合成を行う葉緑体というものが無かったら」と考えてしまいました。

 

地球の生命の歴史を考えると、最初の有機物は放電などのショックで出来上がってきたのでしょうが、そのうちにDNAなどの遺伝子となる物質ができ、そこから生命と言えるものが発達してきたと考えられます。

生命というものの条件は、自らの遺伝子を再生し生命をつないでいくこと、そして代謝を行ない周囲の物質を取り入れて自分の身体を維持することが挙げられます。

 

ここに、葉緑体による光合成と言うシステムが生まれたことにより、非常に効率的な有機物合成の過程が関与できることになりました。

また、光合成により二酸化炭素を使って有機物を作るのと同時に酸素を大量に生成することになり、地球環境中の酸素量を大幅に増加させ、その後の生命の環境を大きく改変してしまいました。

 

葉緑体は最初はシアノバクテリアの一種であったようですが、その後真核細胞に取り込まれて細胞内の組織となり藻類や植物として進化しました。

 

もしも、「葉緑体が無かったら」

あまり、このような「IF」を考えても意味が無いかもしれませんが、(有機物の生命体としては必然のことかもしれませんし)そうなればもしも生命というものが誕生していても、そのエネルギー取得のシステムは地熱からくる熱水や空気中の放電などだけだったかもしれません。

そうであれば、とても進化などというダイナミックなことはできなかったでしょう。

 

もちろん、酸素に満ちた大気環境というものもできなかったでしょう。

原始地球のままであったということです。

 

有機物から遺伝子物質への展開というものは確かに地球の生命にとって大きな出来事だったのですが、それと同じくらいに葉緑体の誕生というものも偉大な出来事だったのだなと、(理解できている人には常識かもしれませんが)改めて気付かされました。

だからどうなんだと言わないでください。

この年になっても気付くということは新鮮な驚きです。