爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「人間を考える経済学 持続可能な社会をつくる」正村公宏著

書名副題の「持続可能な社会」に反応して手に取ってしまいました。

たいていの経済学者の方々は「持続可能社会」ということを誤解していると思っていましたが、本書著者の正村さんはきちんと資源エネルギーの限界も踏まえての論議をされていました。

 

ただし、この本は具体的な経済論議にはほとんど触れること無く、非常に広い範囲の話のようです。

最初に、「経済学は科学か」といった話題から入り、ついで経済体制とは何か、経済体制の選択とはと続き、さらに歴史と経済の関わりを振り返り、最後に「文明と経済」を論じています。

非常に大きなテーマの論議であるために、かえって具体的にどうするかということには触れず、基本姿勢についての経済論であったというように感じました。

 

適度に概略を紹介というのも難しいので、良かったら図書館で借りて読んで下さい。

 

いくつか気になったところだけ。

 

「素朴な自由貿易論は経済と社会を破壊することを認識する必要がある」ということです。

これまでの歴史を見ると、開発の初期段階にある後発国が成長すべき分野の製品に関税をかけて輸入制限をする権利が無ければ産業開発が困難になります。

また、自然環境保全や食料安定供給のための食料品輸入制限実施の権利も認められるべきです。

 

「市場機構の活用が自由と公正の保証の基礎条件であるといっても、市場経済の現実はせいぜい計画経済よりはマシという程度のことである」そうです。

そもそも市場経済は重大な欠陥を持つということを、原理と歴史を通じて認識し無ければいけません。

 

「第二次大戦後の日本の経済体制は、急速な経済成長の実現という目標に関しては有効に機能したが、経済成長の過程で発生した公害などによる人命の喪失を抑止することに繰り返し失敗した。高められた生産力を生活の質的改善のために有効に活用するという目的に関しても大きく立ち遅れた。いまは、経済成長という目標に関する過剰な成功が経済の不均衡を拡大させる基礎要因になっただけでなく、社会や文化を破壊し、子どもの生育環境を変質させ、量と質の両面で人間の再生産を困難にする作用をしていることに目を向ける必要がある」

こういった文章を書けるということは、それだけでこの著者に対する信頼感を感じる要因となります。

 

「現代では生産力と輸送力と通信力の発展によって、人間の活動が自然に与える影響がかつてなく大きくなっている。そのうえ、実質的に地球規模の単一文明へと向かう傾向が顕著になりつつある。ひとつの文明の衰亡が人類そのものの衰亡を意味することになる危険が増大している」

これも正にそのとおりと感じます。

人間を考える経済学  持続可能な社会をつくる

人間を考える経済学 持続可能な社会をつくる

 

 こう言ってはなんですが、経済学者にもまともな人が居るんだなという感想です。

”賀茂川耕助のブログ”を読んで No.1,192スティーガル法の復活を

賀茂川さんの最新記事は「スティーガル法の復活を」というものです。

kamogawakosuke.info

スティーガル法とは、アメリカで1,933年に成立した法律で、議会に提出した当時の民主党議員グラスとスティーガルの名が付いています。

内容は、銀行業と証券業を分離するというものでした。

しかし、より利益を求める銀行の強い要望で、1,999年に当時のクリントン大統領のもと、グラム・リーチ・ブライリー法の成立をもって廃止されました。

 

その結果がどういうことになったかと言えば、銀行がその大きな資金を基に投機に参入し結局は金融危機を招いてしまいました。

 

記事冒頭にもあるように、アメリカの自治領プエルトリコが負債総額8兆円で破綻しました。

アメリカ本体の財政もいつ破綻してもおかしくないほどになっているようです。

 

トランプ大統領は選挙戦当時にはスティーガル法の復活を唱えていたそうです。

ウソばかりのトランプですが一つぐらいまともなことをしてから消えていってもいいように思いますが。

 

日本はどうなんでしょう。銀行どころか公的資金までもが投機市場につぎ込まれているようですが。

 

またまたいつもの、「口先だけ”経済最優先”」

今回の内閣改造に当たり、首相は「経済最優先」で進むと語っているそうです。

(あわわ、”騙っている”と変換しそうだった)

 

選挙や内閣改造など、国民の支持を得たい時だけはこの言葉が出てきます。

しかし、その本心はどこにあるのかもそろそろ、いかにのんびりした国民でも分かりそうなものです。

 

ただし、彼の言う「経済最優先」はそれこそ国民に大きな負債を負わせるものであり、かえってそんな演技をせずにやりたい改憲だけに突き進んでくれた方がマシでしょう。

 

経済最優先と言いながら何をやってきたのか。空前絶後のマイナス金利、日銀による国債の大量買い付け、年金資金を株式市場に大量投入しての株価吊り上げ等、将来の日本に大きなツケを回すようなことばかりです。

 

もう早くやりたい改憲をやってください。そして国民投票で大敗を喫して退陣してください。

「たまたま 日常に潜む偶然を科学する」レナード・ムロディナウ著

「たまたま」とは、英語で言うところのRandomness ということです。

偶然性とか、乱雑性とか訳されますがばらばらに出てくるようなものといったことでしょうか。

物理学や数学で様々な事例が挙げられます。

 

ここでは、もともとは理論物理学者であった著者のムロディナウ氏が一般向けに分かりやすく様々な挿話や比喩を駆使してランダムということを説明していきます。

このムロディナウという人は、大学卒業後も各地の研究所で理論物理学を研究していたのですが、ある日突然そこを辞めてハリウッドに移り住んだということです。

そこで映画のシナリオを書く仕事を求め、やがてスタートレックなどのテレビ番組の脚本を書くようになりました。

その後は、科学ライターとしても仕事をしています。理論物理学の話題を一般向けに書くというには最適と言える経歴の持ち主かもしれません。

 

ランダムネスというものは、非常に身近なものでありながらなかなか理解しがたいものかもしれません。

古代ギリシア人は確率というものが嫌いだったそうです。

彼らはきっちりとした公理で証明できる数学にのみ興味を示し、確率のようなあいまいに見えるものは毛嫌いしていました。

しかし、現代人といえど確率というものをはっきりと認識している人は少ないようです。

偶然出現しているだけのパターンになんらかの意味を勝手に見出してしまうということをよくやっています。

実際は偶然だけで成功したような投資家や実業家を大きな才能があるかのように崇めたりもしてしまいます。

 

ランダムネスと確率というのは、古代から流行してきたギャンブルと密接な関係を持っていました。

しかし、それを科学的に解明しようということはかなり遅くまでは手を付けられませんでした。

ようやく、16世紀になってイタリアのジェロラーモ・カルダーノによってその第一歩が始められました。そのカルダーノも天性のギャンブラーだったようです。

 

ついで、17世紀フランスでブレーズ・パスカル(哲学でも有名ですが、数学でも数々の業績をあげています)がすべてを数え上げるパスカルの三角形や、期待値の概念を作りました。

そのパスカルも20代で父の遺産を受け継ぐや、その金をギャンブルに使いまくったそうです。

 

どうやらランダムネスについての理解不足が様々な迷信に人を誘い込んでいるようです。

 

たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する

たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する

 

 

とはいっても、難しいんですよね。

 私も高校生に数学を教えることがありますが、この辺は非常に理解し難いようです。

夢の話「福岡空港で迷う」

福岡空港と言っても現実の場所ではないのですが、夢の中では「ここは福岡空港」と強く意識していました。

 

このところ、夢で見る交通関係はたいてい鉄道だったのですが、珍しく空港が出てきました。

まあ、その理由は明らかで昨日の家族との話の中で熊本空港への交通の便が良くなったということが出ていましたので、それに影響されたのでしょう。

 

夢の中ではただし、駐機場とブリッジがなぜか「地下」にあります。

そこまでたどり着かなければいけないのですが、その手段は「バスのみ」です。

実際にはかつての整備中の羽田空港などではバスで飛行機まで行くということはありましたが、ボーディングブリッジの前の待合室までバスで行くという空港は経験がありません。

 

しかし、夢の中ではそれが規定条件ですので、バスに乗り込み待合室に向かいます。

そのバスが、運転手が変な人でまともに走りません。そのうちになぜか空港から外に出てしまい、ビルの屋上のようなところに登ってしまいます。

出発時間まではもう30分を切ってしまい、こりゃ乗り遅れだとあきらめました。

 

バスで走り回っているビルの光景がいやにリアルで、植栽を屋上のあちこちにふんだんに植え込んであり、空中庭園のような有様です。

 

普段は寝室のエアコンは動かしていないのですが、この1週間ほどはあまりの夜間の暑さに仕方なく冷房を入れっぱなしです。そのためか、明け方にかえって寒くなり目を覚ますということもあり、睡眠がうまく取れないようです。

変な夢を見るのもそのせいかも。

 

なお、普段よく利用しているのは熊本空港ですが、かつては福岡空港を利用していた時期もあります。

熊本に最初にやって来た新入社員当時は、熊本駅から空港までのバスが道路が未整備だったために、非常に時間がかかったので、福岡まで出た方が楽だったということあがりました。

その後、熊本市内から空港に抜ける「第2空港線」という道路が整備され、さらに九州自動車道とのインター(空港インター)も設置されましたのでかなり便利になりました。

また、5年前まで3年ほど金沢に単身赴任をしていた時は、航空路線が小松から福岡までしかなく、仕方なく福岡から乗っていたこともありました。

福岡空港にはお世話になっていた時期もありますが、いつも思うのは博多駅から非常に便利がよく、地下鉄で5分ばかり、乗り換え時間を含めても30分もかからずに新幹線まで到達できます。その分、市内中心部の住民の方々の騒音被害も大きいのではと思っています。なにしろ離着陸寸前まで市街地の真上を飛びますから。

 

寝苦しい夜が続きます。また悪夢を見そうです。

 

脱エネルギー社会の構築に向けて(3) 運輸交通はどの程度残すのか

ここから先が少しの条件の差異で大きく状況が変わってくるところです。

ガソリンなど化石燃料使用の自動車等の、個人使用は多額の税金徴収によって制限するという基本方針ですが、かといって移動手段、運輸手段を徒歩や馬車に限る訳にはいきません。

そのためにも脱エネルギー化の初期には何らかの方策で公共交通や貨物輸送手段は確保する必要があります。

 

ただし、これらも個人に任せることは避けなければならないと考えています。

初期の段階ではあくまでも化石燃料は残存しています。価格もそれほど高騰はしていないはずです。日本が化石燃料争奪戦から撤退したとなれば産油国側の販売攻勢も強まりかえって価格は下落するかもしれません。

その状況で自由競争を許せば元の木阿弥となるでしょう。

 

ここは鉄道だけでなく、道路交通も海上輸送も、国内については公的なコントロールをしていかなければならないところです。

 

 なお、現状の輸送手段のエネルギー効率を調べてみました。

資源エネルギー庁の作成した資料がありました。

2.1.2 部門別エネルギー消費の動向 │ 資源エネルギー庁

やや古い2002年あたりの数字ですが、

旅客部門で自家用自動車2.4、バス0.8、鉄道0.18、飛行機1.7 (単位MJ/人Km)

貨物部門で営業トラック2.6、自家用トラック13.8、鉄道0.23、海運0.58、飛行機22.6(単位MJ/トンKm)

です。

鉄道の効率の良さ、トラックの浪費ぶり(飛行機並)ということが分かる数字です。

 

さらに、交通手段とエネルギー源を考えてみます。

旅客

飛行機 ジェット燃料(石油由来)

鉄道  電気

    軽油 その他(石炭:ほとんどなし)

自動車 石油由来燃料

    天然ガス

    電気

    水素(ほとんどなし)

その他、自転車・徒歩・人力車・カゴ

 

貨物

飛行機 ジェット燃料(石油由来)

鉄道  電気

    軽油その他

自動車 石油由来燃料

    (自動車も貨物については電気は少ない)

船舶  石油由来燃料

    天然ガス・石炭

その他、馬車・牛車・リヤカー

 

このように、石油や天然ガスなどの供給源減耗の不安から使用自粛を考えているエネルギー源を用いる輸送手段としては、特に「飛行機」「自動車(貨物)」であるということが分かります。

 

また、上記のエネルギー効率から見てもこの二種の輸送手段は可能な限り速やかに使用を避ける方向で取り組まなければならないと言えるでしょう。

 

これらのことから、来るべき「脱エネルギー社会」(ただし、ある程度のエネルギー消費は当分の間は残す)では、旅客移動は鉄道主体、貨物輸送は鉄道と船舶、とするべきでしょう。

ただし、都市間輸送などでは大規模鉄道の輸送が現存の設備で可能ですが、都市内輸送は大都市圏を除いては極めて乏しい状態になっています。

これらを再構築しない限り社会の運営は難しいものになります。

 

(続く)

「格差と序列の心理学 平等主義のパラドックス」池上知子著

格差や不平等といった問題については、多くの人々の関心を呼び特に経済学や社会学の研究者たちが数々の意見を発表していますが、この本では心理学の立場から格差や平等といった問題を人々がどのように認識し、その背後にはどのような心理が隠れているかということを分析していきます。

 

人々の間に格差があるということは、社会的に支配する層、支配される層があるということを当然と認めるかどうかという心理が関わってきます。

こういった、「社会的支配志向性」の強い人々ほど、対外的に強硬ではないかと考えられますが、911テロのあとの意識調査では、アメリカなど西欧各国ではその傾向が強いものの、中東諸国では逆となり、社会的支配志向性の弱い人々ほどテロリズム支持の傾向が強かったそうです。

 

また、今の格差を作り上げてしまったシステムというものが存在するはずなのですが、そのシステムを正当化する心理状態というものがあるようです。

現行のシステムで不利益を受けている人々、アメリカで言えば貧困層黒人などでは、それが自分の能力のせいではない、つまりシステムのためだとして、システムを正当化してしまう心理状態になってしまうようです。

 

格差が広がってしまう時には、それぞれの集団ごとに動いていくことになるために、集団への帰属意識というものが強まるそうです。

つまり、名門大学出身者集団であるとか、高卒労働者集団であるとか言った集団に属するという心理が強まるのですが、そうなるとそれぞれの集団、そして自分以外の集団といったものに対する認識がステレオタイプ化し、「高卒で働く連中はこんなもの」といった固定概念ができてくるようです。

自身の社会的アイデンティティというものを心理的に守るためにもそういった動きが強まるのでしょう。

 

 

日本では長らく平等神話というものがあったと感じられていましたが、規制緩和から競争原理の強化という流れの中で格差拡大が認識されるようになりました。

しかし、経済成長時代であっても格差は歴然として存在していたと考るのが当然であり、そこから見直していく必要がありそうです。

 

学歴社会というものが強力に作用していたのが日本であるというのは間違いないところで、東大京大などのエリート大学、それ以外の大学、高卒者、それ以下といった具合に分化されていました。

この辺の議論には以前に本を読んだ橘木俊詔さんの論が引用されています。

 

さらに、その後の展開として、吉川徹さんの「学歴分断社会」も引用されています。

これらの議論を集約する形で、本書では次のように要約されています。

日本では「学歴」が重要な位置を占めていたが、総中流社会の時には学歴による経済格差は小さかった。しかし現在は学歴が経済格差を拡大する社会になってきた。

また学歴の子供への継承ということが固定化し、階層の固定化につながっている。

 

 あとがきにあるように、格差問題は多くの議論がなされていますが、その心理的背景を論じたものはあまりないようです。

これを深く洞察して人間性に基づいた政策論議が必要であろうと結んでいます。

 

格差と序列の心理学―平等主義のパラドクス

格差と序列の心理学―平等主義のパラドクス