白川静さんといえば字統、字訓といった漢字学の集大成の著書で有名ですが、中国の古代の歌謡の記録である詩経の研究もされています。
この本は、中国古代でも氏族制社会が崩れていく中で多くの詩が作られ、そしておそらくは声に出して詠まれていたということを、ちょうど社会の動きとして極めて類似している日本の万葉集と対比させて解説しています。
中国で詩が作られたのはおそらく周王朝の前半でしょう。当時はそれまでの氏族制社会が徐々に王朝を中心とした社会に変化しているところでした。
それは、個人の感情を歌うものではなく、氏族の祭祀のためのものであったそれ以前の詩というものが、民衆というものの成立とともに個人にまで降りてきたというものだったのかもしれません。
しかし、周王朝も一旦滅びたあとに東遷したころから春秋時代と呼ばれる諸侯の国の並立する状態に移行すると、盛んに国同士の外交といったものが盛んになります。
その場で、外交交渉の手法として使われるようになったのが詩というものでした。
これに通じた者のみが貴族的教養を持ち外交者として適任であると言った価値観が形作られるようになると、詩本来の意味を考えること無く教養を表す手段としてのみ使われるようになってしまいます。
ここで、中国古代の詩という文学作品は大きく変質してしまいました。
さらに儒教集団に取り込まれ、「詩経」という「経」扱いをされるということにもなってきます。
その中で、詩というものの内容の解釈も、社会的、政治的意味合いを持つものであったというような強引な解釈法が横行するようになっていきます。
こういった解釈法を「美刺(びし)」と呼ぶそうですが、この観念が漢時代ころから広く通用した詩経学でした。
漢代にはその直前の大乱からの回復のために様々な古典の調査や整理が行われたのですが、その一環として詩経も多くのテキストが整理されました。
その中でも後漢の毛亨のまとめた毛伝というものが詩経学の主流になったそうです。
しかし、これも数々の国々の説話と詩篇とを結びつけて牽強付会の解釈を与えたものでした。
そういった古典的な解釈にやや疑問が出されたのは、ようやく宋代になってのことでしたが、それも不十分なもので、詩篇の文学的な内容まで問題にするようになったのは、ようやく新中国になってからのことでした。しかしそれらもまだまだであると著者は判断しています。
この後、この本は詩経の中の詩を取り上げてそれがどのような成立条件のもとで出来上がってきたのかということを分析し、さらに万葉集の歌と比較して論じていきますが、多数になりますので詳述は避けます。
一つの例のみ。
周南の「巻耳」(けんじ)という詩は美しいものとして知られています。
采采巻耳 不盈頃筐
寒嗟懐人 眞彼周行
と始まりますが、「はこべ」の類の草を摘んでもなかなか籠にいっぱいにならない。
ようやく摘み終えたものを、征人として出征している夫の無事を祈って道に置くというものです。
このような風習は万葉集にも多く見られ、
難波辺に人の行ければおくれ居て若菜摘む児を見るがかなしき
という歌にも詠まれているように、女が男に会えるような祈りを込める行為であったようです。
私が詩経というものについて知りたいと思ったのも、春秋左氏伝や史記などを読んでいるとあちこちに教養ある貴族がその知識を見せるために詩篇を詠じるという場面が頻出するため、その中味がどのようなものかということを見たいということからでした。
しかし、どうやらそういった詩篇の利用というものは、白川さんに言わせれば間違いであったということのようです。