爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

微生物の話 番外編 Clostridium botulinum

”微生物の話シリーズ、番外編”としてつい最近乳児ボツリヌス症で亡くなった赤ちゃんが出たということで、クロストリジウム・ボツリヌムを取り上げます。

 

Clostridium botulinum (クロストリジウム・ボツリヌム)

 

グラム陽性偏性嫌気性菌、耐熱性の芽胞を形成する。芽胞形成ということでは、枯草菌(納豆菌)などとも似通った性質があるが、嫌気性と好気性の違いがある。

 

ボツリヌス菌 - Wikipedia

 

ウィキペディアにもあるように、「botulus」はラテン語で「ソーセージ」です。

ヨーロッパではソーセージにボツリヌス菌が混入し中毒を起こすことがあったために、この名前が付きました。

 

「偏性嫌気性」とは、酸素があると死滅してしまうということです。したがって、生きていられる環境は少ないように感じますが、動物の体内でも酸素のない環境は存在しますし、有名だったのは真空パックになった辛子蓮根での中毒でした。

意外に生育環境はあちこちにあるようで、馬鹿にしたものではありません。

 

 

「芽胞」というのは納豆菌とも共通のもので、「胞子」とも言いますが、順調に繁殖している場合は形成することがないものが、生育が難しい環境になると体内にそのような器官を作り悪環境に耐えられるようにします。

芽胞となった菌はほとんど真空中でも生き長らえるようですし、もちろん高酸素環境でも死ぬことはありません。

この芽胞は100℃程度の温度では何時間加熱しても死に絶えることがなく、殺菌するためにはオートクレーブ(高温高圧蒸気滅菌装置)で121℃1気圧で最低15分以上の条件が必要です。

芽胞の状態では普通に土壌中に分布しており、増殖に適した環境になれば(酸素がなくなり栄養があるところなら)急激に繁茂します。

 

かつて、会社の研究所で微生物の仕事をしていた時は、クロストリジウム属の別種の菌は取り扱ったことがありましたが、さすがにボツリヌス菌は扱いませんでした。

やはり毒素が怖いということがありました。

また、嫌気性菌の扱いも厄介で、通常のクリーンベンチなどで開くとすぐに死んでしまうため、嫌気ボックスといったものが必要でしたが、そこまでの装置は持っていませんでした。

簡易法としては、酸素を触媒で取り除いた空気を噴射してやって手早く操作するというものはあったのですが、難しい技術でした。

 

 

最近のCMでは「菌が、菌が」と脅すようなものを頻繁に見かけますが、本当に恐ろしい菌(微生物と言ってよね)はそれほど多くはありません。

しかし、正真正銘の「怖い微生物」のボツリヌス菌が、かえって存在も知られず必要な注意が払われていないというのは、歪んだ世相というべきでしょう。

 

夢の話「サイクリング」

また、自転車に乗ってサイクリングという夢を見ました。

 

その原因は明らかで、NHK-BSでまた始まった人気シリーズ番組「にっぽん縦断 こころ旅」です。

火野正平さんが自転車で旅をするというもので、もう7年目に入りました。

全国各地を廻るのが楽しく、毎日朝夕2回見ています。

 

夢の中では、10段変速スポーツ車に乗り、なぜか自動車専用道路が自動車乗り入れ禁止になって自転車専用となった道を快適に走ります。

 

とは言っても相当な坂道もあり結構大変な行程のように感じました。

 

「こころ旅」の番組でも坂道を走るというのが呼び物?になっていて、火野さんがハーハー言いながら走っています。

 

実生活では、一昨年秋より電動アシスト自転車に乗るようになり、坂道の苦しさは一気になくなりました。(とはいっても、当地にはほとんど坂も無いのですが)

ただし、それに慣れてしまうともう普通の自転車はペダルが重すぎて厳しくなってしまいました。

 

 

夢の最後には、併走している人の顔を見て驚く場面がありました。

それは、昔の同僚でした。

しかし、彼はもう30年以上前に会社を退職し他に移り、その後はまったく会ったこともありません。

それほど親しいというわけでもなく、なぜ、その顔を思い出したのか不思議です。

もしかして、数日前に彼が死んだとしたら「奇跡の虫の知らせ」なのかもしれませんが、それすら知ることもできない人です。

 

というわけで、夢の最後に不思議なことを残しつつ目が覚めてめでたしめでたし。

 

 

なお、「10段変速スポーツ車」というのは昔の少年にとっては憧れの的でした。中学生の頃に買ってもらったのはそこまで高級なものでなく、後輪だけ変速がついた3段のもの。

前輪も変速装置がついたというのはかなり高かったように思います。

その後も、会社に通うのに自転車というのはあちこちで乗りましたが、どれも格安の買い物用自転車、(俗に言う”ママチャリ”です)それも金のない頃は自転車屋に行って中古を買ってきたものでした。

 

ついでに、番宣をする義理もないのですが「にっぽん縦断 こころ旅」はNHKBSで月曜から金曜まで朝7時45分からと夜7時からの放送。

今春は高知から出発し愛媛、広島、その後福井からずっと日本海側を周り北海道まで行きます。

各府県に1週間(4日)滞在、各地を訪ねてくれという視聴者からの手紙に応えての自転車旅です。

「官僚亡国 軍部と霞が関エリート、失敗の本質」保坂正康著

著者はノンフィクション作家、特に昭和史の範囲をできるだけ当事者や周辺の人々にインタビューをしてそれをまとめるという手法で、「東条英機天皇の時代」などの著書を発表しています。

 

本書は、それらの著書を執筆する過程での関係者への聞き取りなどについて、様々な月刊誌などに書いた記事をまとめたもので、著者の姿勢やエピソードなどが分かるようになっています。

 

2部構成で、第1部は本の題名にもなっている「官僚亡国論」、これは現在の官僚ではなく、太平洋戦争当時の「軍官僚」、軍部に属してはいても決して戦場に出て戦うこともなかった連中がいかに国を誤ったかということを主に扱っています。

第2部は皇太子と秋篠宮の関係について、ちょうど皇太子が記者会見で皇太子妃の「人格否定発言」をして問題となった頃に、皇太子と天皇、そして弟の秋篠宮について様々な取材を通して分かってきたものを数冊の本としたそうですが、それについての読み物となっています。

 

太平洋戦争は、その開戦の決定までのプロセスを見た時に、決定に関わったと言える人々は政府からは首相、陸相等6名、軍部の大本営側からは、参謀総長など4名、合計して10名だけと見なせるそうです。

彼らは国と国民の生命や財産を危機にさらす決定を真剣に討議した後もないまま決めてしまいました。

そして、彼ら10名は実はすべて「官僚」であったということです。

そこには、政治家・重臣・経済人・言論人のいずれも存在せず、官僚か官僚出身の閣僚でした。

 

太平洋戦争をめぐっては、その指導者の見通しの無いこと、指導者の責任逃れ、そして当時の声明や文書など、すべては官僚というものの性格によるものといえます。

 

本書を執筆した2008年当時は官僚の失敗というのが連続して起きていました。

農水省事故米販売、社会保険庁の年金事務失態、防衛省事務次官の収賄事件など、官僚の暴走が相次いでいた頃です。

そして、それを見て連想されたのが、太平洋戦争開戦の第1の責任者の東条英機でした。

東条は軍部に属しますが、軍人と言えるようなものではなく「軍官僚」というべき立場です。

著者は東条を取材し本を書いた経験がありますが、そこに表れていたのは指導者としての責任に対する反省もなく、犠牲となった国民に対する思いもないものでした。

 

こういった軍官僚の特質は現在の霞が関エリート官僚にも続いているものです。

著者は官僚体質について、高橋洋一氏、岩瀬達哉氏、佐藤優氏と討論をしていますが、そこに表れているのは有能とも言えない霞が関官僚たちが思い上がり国民をないがしろにしている現状でした。

 ここで記されている官僚の惨状は読むだけでも腹が立つようなことばかりですが、

佐藤氏が語るのは特に外交官僚の能力の急激な低下です。

外務省にはロシア関係で200名ほど職員がいるそうですが、そのうち辞書を引かずにロシアの新聞が読めるのはわずかに6名程度、辞書を引いても読めるのは2割とか。

岩瀬氏は年金業務監視等委員会で委員を勤められたそうですが、そこでは社保庁厚労省の官僚が「ウソと沈黙」に終始したとか。また彼らは首相の指示も公然と無視し開き直ったとか。

高橋氏は小泉内閣で政策スタッフをされたのですが、財務省の官僚がもっとも抵抗したのが政策金融機関の整理統合でした。それは、かれらの天下り先が無くなるからというのが理由です。官僚は「省益」だけを重視しているという批判がされますが、実際は「省益」ですらない、「個人益」だけを考えているそうです。

 

著者は、元大本営参謀として太平洋戦争当時さまざまな暗躍をしていた瀬島龍三氏の評伝を書いたことがありました。

瀬島も著者の言う「軍官僚」そのものという人物です。

取材にあたり、瀬島本人にも長時間にわたるインタビューをしました。

そこでは、開戦時に外国電報をすべて検閲していたとか、台湾沖での航空戦の報告を握りつぶしたとか、ソ連と終戦の交渉をしたとか、シベリアの捕虜収容所で特別待遇を受けたのかといったことも聞こうとしたのですが、都合の悪い点は上手く論点をずらしながら答えないという周到さを示したそうです。

しかし、以前に私も読んだことのある本の著者で昭和史に深い知識を有する半藤一利氏が瀬島と対談した時にはさすがの半藤氏の追求に思わず真実らしきことを語ったそうです。

 

最近の風潮で、日本の悪い点に触れようとするとそれは「自虐史観」だといって批判する勢力が増えてきているということがあります。

著者の保坂さんも度々そういったことを言われる機会があったそうです。

しかし、保坂さんから見ればそのように言う連中の歴史観などは穴だらけ、スキだらけの粗雑なものであり、取るに足らない程度のものでしかありません。

そこで、著者が言うのは「自虐史観」ではなく「自省史観」というものを確立すべしということです。

そのためには、徹底して史実を洗い出し立証すること。さらに、自虐史観などと言って批判する勢力は戦後ずっと潜伏しておりようやく今表に表れてきたということを認識することだということです。

なお、著者は自らを「保守言論派」と考えていますが、自虐史観と言い出す歴史修正主義者は保守派とも言えないような者たちです。

なお、「革新」という勢力もその歴史観は史実を適当に取捨して都合の良いものだけを見るような人々が多く、著者は決して与することはできないようです。

 

 

本書第2部は皇室に関するもので、ちょうど10年ほど前に皇太子が雅子妃が「人格否定されている」という発言を記者会見の場で発し、また天皇も皇太子一家がほとんど会いに来ないということを批判的に語ったということで、その間の摩擦が大きいのではないかということ。そして、その間に立って秋篠宮が非常に大きな存在感を示しているということが書かれています。

詳述はしませんが、この問題は昨年の天皇の退位希望発言で大きく変わっているようです。

そうなれば皇太子が即位するのでしょうが、秋篠宮がどうするのか、興味ある問題です。

 

官僚亡国 軍部と霞が関エリート、失敗の本質

官僚亡国 軍部と霞が関エリート、失敗の本質

 

 

乳児ボツリヌス症で1人死亡 渡辺宏さんの論評

「安心!?食べ物情報」で食品問題をあれこれ取り上げていらっしゃる渡辺さんですが、ご病気ということで2週間お休みの後復帰されました。お身体の回復第一に無理されないようにしていただきたいものです。

 

http://food.kenji.ne.jp/review/review907.html

 

さて、今週の記事で最初に取り上げられたのが、「乳児ボツリヌス症で初の死者」というものです。

ボツリヌス菌の毒素による死者というのはこれまでも出たことがありますが、「ハチミツを乳児に与えたことによる死者」というものは、危険性が指摘されて指導も行われていたためか、これまでは発生せずに済んでいました。

 

しかし、今回初めてハチミツを与えられた乳児が感染し、死亡したというものです。

 

ハチミツにはボツリヌス菌の芽胞が含まれることがあり、免疫力の弱い乳児が食べた場合、腸管内で増殖してボツリヌス菌毒素を出して中毒になる危険性があるということはよく知られているはずのことでしたが、渡辺さんが今回調査した所、乳児向けの離乳食レシピにハチミツが使われているものが多数発表されているそうです。

 

記事中にもあるように、ボツリヌス菌の芽胞が含まれている場合は通常の調理程度の加熱では殺菌できず、摂取されてしまうことがあります。

 

しかし、「砂糖よりはハチミツのほうが良い」という短絡思考で使ってしまうという無知なレシピ作成者が多いようです。

 

 

今週の渡辺さんの記事には、他に「刻み海苔食中毒事件のその後」とか、「難消化デキストリンを含むトクホの疑問点」など、興味ある内容が含まれています。

 

まだまだご活躍頂きたい方です。くれぐれも身体を大切にしていただきたいものです。

 

 

 

なお、私も問題の「クックパッド はちみつ 離乳食」で検索し中味を眺めてみました。

確かに147件のレシピが載っていますが、ほとんどのものには「離乳食完了期」とか「一歳を過ぎた子」とかの記述があります。

その意味では「ハチミツは1歳を過ぎてから」という基準に適合はさせているとは思いますが、どうも機械的に当てはめているだけにも感じられ、ボツリヌス症の危険性を本当に考慮しているとは思えませんでした。

 

真剣に考えれば、「一歳のお誕生祝いのケーキにはちみつ入り」なんてだすはずもないですから。

 

「”戦地”派遣 変わる自衛隊」半田滋著

読んでいる途中であまりのつまらなさに途中で止めた本というものもありますが、この本の場合はつまらない、面白くないというのではなく、あまりにも書かれていることに腹立たしさを覚えて途中で読む気がなくなりました。

 

それは、アメリカからの無理強いで高価なミサイル防衛システムを買わされ、それが日本の防衛全体を揺るがしているという記述以降です。

しかもそのPAC3というものは湾岸戦争で使われてたといってもその効果が不明確な欠陥商品かもしれないとか。

 

この本は2009年出版、書かれていることは小泉政権時代のことが主ですが、それでもこの体たらくです。今ではさらにひどいものでしょう。

 

著者の半田さんは中日新聞東京新聞で主に防衛について書かれてきた方です。

昨今の政権応援団のメディアではない、真に政権を批判的に捉えて書ける方でしょう。

 

 

自衛隊の海外活動は、1991年の掃海艇のペルシャ湾派遣で始まり、翌92年のPKO協力法成立以降常態化してしまいました。

東ティモールなど5回の派遣で自信をつけたのか、2001年にはテロ特措法を制定した上でアメリカ支援のためにインド洋に海上自衛隊艦船を派遣しました。

さらに2004年にはイラク特措法を根拠に、「戦地」イラク陸上自衛隊が派遣されました。

そこでは航空自衛隊の輸送機による「人道復興支援活動」としての輸送も行われましたが、その実態はアメリカ軍将兵の輸送がほとんどであったようです。

 

本書はそのアメリカのために戦地に送り込んだ自衛隊の実情を取材し記録としたものです。

 

湾岸戦争のトラウマ」ということが言われます。

湾岸戦争の際には日本は130億ドルにおよぶ巨額の拠出をしまいしたが、部隊派遣は行わなかったためにほとんど諸外国から認識されず、感謝もされなかったというものです。

1991年に湾岸戦争終結後、クウェート政府が米国など30国に謝意を表す広告をアメリカで新聞に載せましたが、その中に日本の名が入っていなかったことも象徴的です。

 

しかし、実状はこの130億ドルはほとんどがアメリカに入ってしまっていた。したがって、クウェートはまったく知らなかったということのようです。

結局、アメリカだけのために戦費として貢いだだけのものだったのです。

 

イラク戦争の後、陸上自衛隊イラク南部のサマワに派遣されました。

しかし、そこでの活動はほとんど実態がなく、戦闘を怖れて基地の中にずっと籠もっていたのが実態のようです。

現地からはいろいろな要望があったものの、それは自衛隊ができるようなことではなく、活動自体まったく不可能でした。それも調べずに闇雲に送り出したのは、結局はアメリカに協力しているというポーズだけのものだったからです。

 

ミサイル防衛システムの話は、冒頭にも記したように読めば読むほど腹が立つばかりです。

アメリカが開発したものの高額なためにどこも購入しなかったこのシステムを唯一導入したのが小泉政権でした。

これをたとえたのが次の文章です。

「オートバイ用の駐車場しかないのに、アメリカ製のスポーツカーを買いたい。駐車場を広げるには母屋も立て直さなければならない。金もそんなにないけどしかたがない」

これとそっくりの事態になってしまったそうです。

 

2004年から導入したミサイル防衛システムMDのせいで、日本が定めた防衛計画大綱も予算面からがたがたになってしまいました。

 

それで導入を決めたパトリオットミサイルもその実効性が疑われる程度のものです。

湾岸戦争で初めてパトリオットPAC3が使用されましたが、それで撃墜できたイラクのミサイルはわずか9%だったという話もあります。

さらに、PAC3の射程距離は15kmしかありません。それを置いたごく近くのところしか守れないということです。

 

さらに米軍再編に必要な費用も多くを日本が負担するということになっています。

これらのツケはすべて国民に跳ね返ってくることになります。

 

ここにも「無関心のツケ」が回ってくるということでしょう。

 

「戦地」派遣―変わる自衛隊 (岩波新書)

「戦地」派遣―変わる自衛隊 (岩波新書)

 

 この本の書かれた時には、安倍の辞任で一旦は危機が遠のいたとなっていますが、再登場以来さらに状況は悪化したということでしょう。

本書の多くは小泉時代の問題を扱っていますが、それ以上のものが安倍時代にやってきています。

定点観測 八代城跡の桜 花見の機会も無いまま散り始めました

先ほど、大雨の中を桜の状況を見に八代城跡に行ってきました。

案の定、すでに満開を通り過ぎてかなり散り始めています。

 

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ほとんど花見をするチャンスも無いまま、今日の暖かくしかも激しい雨に叩かれてどんどんと散っていました。

 

露天商の方々もどうやら営業放棄のようです。開店休業。

 

関東では長い開花期間が楽しめたようですが、こちらでは今週始めにようやく咲き出したと思ったら、あっという間に満開。そして散っていくという残念なシーズンとなりました。

 

飯田線の思い出

最近、「よんばば」さんのブログで飯田線に乗って湯谷温泉に出かけたという記事が出たのに触発され、昔からよく利用した飯田線の思い出を書いてみようかと思いました。

 

(なんちゃって、ちょうど良いネタに出会って喜んで書いているだけですが)

 

 

飯田線は長野県中部の辰野と愛知県の豊橋を結ぶ路線で、現在はJR東海に属しています。

辰野駅で中央線、豊橋駅東海道線と連絡しており、かつては新宿や長野、名古屋からの直通運転列車もありましたが、現在では廃止されています。

また、辰野豊橋間の全線を運行する列車はなく、どちらからも飯田までの運転となっています。

 

 

両親の故郷が飯田市近郊で、東京、名古屋、神奈川に住んでいた頃に里帰りするには昔は飯田線を利用するしかなかった時期がありました。

今でこそ中央高速のバスを使った方が速く行けるのですが、これが整備されてきたのは1980年代以降でした。

 

 

私が生まれた1950年代半ば、一家浦和市に住んでいましたが、そこから長野県飯田地方に帰るには新宿から中央線に乗り、辰野から飯田線というルートしかありませんでした。

当時は列車旅行者も多く、ひどい混雑ぶりだったようです。

2歳違いの弟が生まれたすぐ後に実家に帰らなければならない用事ができた母は、弟を背負い、私の手を引いて混雑する中央線急行に乗り苦労して帰ったということです。

しかし、おそらく辰野から先の飯田線に入ればそこまで混雑は無く安心できたでしょう。

 

その後、ほどなく名古屋に転居しました。

名古屋からは豊橋まで国鉄名鉄で出て、そこから乗り換えて延々と長い飯田線の旅でした。

ここでは小学校1年まで居ましたので飯田線の旅行の思い出も残っています。

新城(しんしろ)あたりまではのどかな田園風景ですが、長篠城を過ぎると渓谷の感が強まります。

そこから中部天竜、佐久間に出ればいよいよ天竜川との併走です。

くねくねとうねるような川に沿ってカーブ続きの線路、トンネルも数多く子供の私達兄弟はトンネルの数を数えていったものです。

帰省はやはり夏が多かったのですが、当時はまだ電車にクーラーは設置されておらず、窓を開けて風を入れるしかなかったのですが、トンネルに入るとひやりとしたような覚えがあります。

そして、天竜峡をすぎればいよいよ伊那谷、ようやく父母の郷里が近づき長かった旅も終わる喜びと、馴染みの日本アルプスの山々と再会できる楽しみがありました。

 

 

小学校6年以降は神奈川県茅ヶ崎に住みました。

そこから長野へのルートは、最初は新宿発の電車というものだったのですが、ほどなく新幹線で小田原から豊橋まで、そこから飯田線に乗ったほうが早いということに気づき、しばらくはそちらから入ることが多くなりました。

豊橋駅の新幹線から飯田線ホームへの乗り換えは、非常に長い跨線橋を渡らなければならないのですが、急がなければ座席が無くなるかもしれず足早に歩きました。

さすがにもう、トンネルの数を数えるということはしませんでしたが、渓谷をたどりながら難読名の駅を次々と見る楽しみもありました。

出馬、為栗、大嵐、中井侍、鴬巣、駄科など、知らない人にはなんと読むかは難問でしょう。

 

この頃には、父からお古のカメラを貰い、盛んに電車の写真を撮るようにもなりました。

主なターゲットは蒸気機関車中央西線に撮影旅行をしたりしましたが、飯田線の旧式電車や電気機関車も撮影するようになりました。

飯田の少し北方の、元善光寺駅や下市田駅周辺が撮影ポイント(というのもそのすぐそばに母の実家があっただけの話です)で、南アルプスの山を背景に列車の写真を撮ったものです。

当時は結構列車本数も多く、あまりダイヤを調べずに行ってもすぐにやって来るという便利さもありました。

 

 

天竜峡以南の渓谷沿いもさることながら、飯田以北の河岸段丘を走る飯田線も味わい深いもので、田切という地形(地名も多いのですが)を迂回しながらの線路が数多く残っています。

これは、天竜川に注ぎ込む支流が河岸段丘を通るところで深い谷となっているもので、両岸の上の田畑を切り込むようになっているからそう呼ばれるものと思います。

ここを通る電車から見ていると、車窓の山々が右から左へと頻繁に交代して見え、どちらに進んでいるのか分からなくなります。

そして、最後にやや長い鉄橋で川を渡り対岸を登ることになります。

 

 

神奈川を離れ熊本にやってきてからは、長野を訪れる機会もなくなりました。

飛行機で上空を通過する時にあの辺かと見るだけになってしまいました。

 どうやら飯田線にも特急が走っているようです。特急と言っても速くは走れないだろうな。