爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「日本人 祝いと祀りのしきたり」岩井宏實著

日本には全国的な年中行事、祝祭日の他にも各地に地方的な行事が多く行われています。

しかし、その詳細な点はもはやかなり忘れられているようで、私自身も知らないことが多くなっています。

 

そういったことをきちんと押さえられるという点でなかなか優れた本かもしれません。

著者の岩井さんは民俗学が専門で国立歴史民俗博物館はじめ多くの場所で研究をされてきた方です。適任の方の書かれた本と言えるでしょう。

 

 本書まえがきにも、最近の地域の祭が本来の祭日を無視して休日にあてる風潮を嘆いて居られます。

その意味でも、本来の祭の日というのはどういった意味がある日だったかということを再認識しておく必要もあるのかもしれません。

 

年中行事という言葉は現代でも多くの場面で使われますが、もともとは平安期の宮廷から出た言葉です。

宮中の恒例行事をまとめた冊子などが多数残されており、そこで書き残された行事を年中行事と称しました。

 

しかし、そういった特別な日というものは宮中だけでなく広く社会のあちこちで古代から行われており、それらも年中行事と扱うのが適当でしょう。

 

これを「ハレの日」と扱い、神事を行う日とされてきました。

 

なお、現在は太陽暦で暦を編まれていますが、もともとは太陰暦でした。年中行事もこの旧暦でこそ意味がある場合が多いのですが、行事をそのまま新暦に移行させた場合も多いようです。

 

また、一日というものの認識も現代では夜中の12時で日付が変わるというものですが、これも時代により大きく変わっています。

江戸時代には日の出から一日が始まるという習慣もありました。

 

しかし、時代をさらに遡ると古代には一日は日没から始まるという考え方があったそうです。

室町時代くらいまではこの風習が残っており、物語や記録などを読む場合には注意が必要なようです。

したがって、大晦日からの年越しの風習でも今で言えば大晦日の夜の食膳というものが、実際は新年第一回目の正餐であるという感覚があったようです。

 

また、祭の際の宵宮というものが祭り前日の夜から行われる場合がありますが、これも宵宮から祭の日が始まるという認識であったもののようです。

 

 

江戸時代には広く藪入(やぶいり)という風習が行われていました。

これは奉公人が正月の16日と7月16日に生家に帰るというものだったのですが、これは正月16日がお斎日といって先祖を祀る日だったからということです。

そのために、奉公に出ている子女も家に帰したというところから起こったものでした。

明治以降は「朔日正月(ついたちしょうがつ)」の風習が一般的となり、帰省もこの正月近辺となりましたが、元々はこのような先祖祭から起きたものでした。

 

 

今では祝日と祭日というものが混同されてしまっているようですが、もともとははっきりと使い分けられていたもののようです。

 

明治初期の制定により、1月5日を新年宴会、2月11日を紀元節、11月3日を天長節として、これらが祝日、

1月3日が元始祭、1月30日が孝明天皇祭、4月3日が神武天皇祭、9月17日が神嘗祭、11月23日が新嘗祭、とされてこれらが祭日と決められました。

その後、明治11年になり春季皇霊祭(春分の日)、秋季皇霊祭(秋分の日)を祭日に、四方拝(正月元旦)を祝日に加えられたそうです。

 

戦後になり、祭日は廃止され祝日とされました。祭日は名前を変えられてそのまま祝日化されたものが多いようです。

 

その他、年間のさまざまな行事の解説もあり、たとえば6月1日は「氷の朔日」とされています。

当地、熊本県八代では「コッズイタチ」と言われていますが、これの意味がようやく分かりました。

 

こういったものは失くしてはいけないものと改めて感じました。

 

日本人 祝いと祀りのしきたり (青春新書インテリジェンス)

日本人 祝いと祀りのしきたり (青春新書インテリジェンス)

 

 

「これが日本人だ!」王志強著

著者は中国生まれの中国人、IT関係の開発者として日本でも勤務、20年に渡って中国と日本を行き来しているそうです。

その王さんがあくまでも中国人に向けて日本と日本人を解説している本ですが、これを訳者の小林さゆりさんが中国の本屋で見つけ、是非にと頼み込んで日本語訳したものです。

 

内容は多岐にわたっており、企業で見られる日本人の姿から歴史上の日本人論まで、さまざまな場面での日本人というものを、あくまでも中国人としての意識から論じています。

 

著者は種々の日本人著作を読破しているようで、文化的、民俗的視点から日本人論を展開していますが、実際に関わってきた多くの日本人を観察したものは深いものを感じますが、書籍から得られたものはやや表層的なものと感じます。

しかし、まあ一般の日本人が自ら考えている日本人論よりははるかに優れた観点であろうとは言えます。

 

なお、日中戦争以降の問題点についてはさすがに詳しく捉えられているようです。

この辺は中国政府の公式的な姿勢とも異なる理性的な観点と見ることができます。

こういった見方ができる中国人も居るということは心強いものです。

 

内容は広範囲で詳細なものなので取り上げませんが、面白い点をひとつだけ。

 

中華思想」というものは日本の中国論の中で常に語られるものですが、中国人の著者は中国では一度も聞いたことがなかったそうです。

また、中国の大辞典「辞海」にも載っていません。

どうやらこの言葉は日本で広く使われているだけのようです。

 

これは日本人の中華文化圏内での周辺部であるという自意識から生み出されたものであろうということです。

 

さらに、日本では中国に中華思想がある上に、朝鮮半島には「小中華思想」があるとしています。

朝鮮では中国の影響が強かったために伝統文化面では日本に対して多少の優越感を抱いていますが、それへの対抗意識としてそのような見方を取ってきたのだろうということです。

 

この点は面白い観点と感じました。

 

これが日本人だ!

これが日本人だ!

 

 

葉酸サプリの問題点 FOOCOM.NETで瀬古博子さんが指摘

食品関係でここで度々取り上げるのが、食中毒の他には健康食品、サプリの問題点ですが、どうも問題点ばかりが目につく割には社会の関心が薄いように思えますので、気がつけばしつこく書いていきたいと思います。我慢してお付き合いください。

 

今回の問題は、FOOCOM.NET専門家コラムで瀬古博子さんが取り上げている「葉酸サプリ」の問題点です。

 

気になる葉酸サプリ | FOOCOM.NET

 

葉酸」と言ってもなかなか知られていないものかもしれませんが、レバーや緑黄色野菜に含まれているという、ビタミンの一種です。

 

水溶性ビタミンですので、過剰摂取による害は比較的少ないと考えれていましたが、蕁麻疹、発熱、呼吸障害の他、悪性貧血を起こすと言われています。

その摂取量は成人で1日200マイクログラム、妊娠可能性のある女性で400マイクログラムということですが、上限量が1000マイクログラムとあまり差がない量になっています。

 

それが、瀬古さんの記事によればサプリの1日摂取量が上限量に近いものもあるとか。

他の食品からの摂取も考えればそのサプリを飲むと上限量以上を摂取してしまう可能性もあります。

 

また、葉酸が特に必要なのは妊娠前から妊娠後3ヶ月までの間であり、それ以降は摂取してもしょうがないのですが、サプリの商品のイラストには妊娠後期の女性の姿が書かれており、その事実も誤認させる可能性があるようです。

 

なんとなく「妊婦には葉酸」という程度の知識しか持っていない場合は出産間近までサプリを飲んでしまうことにもなりそうです。

 

 

この記事で瀬古さんが書かれているように、サプリで一番問題となりそうなのは、「過剰摂取」であろうと思います。

「毒にも薬にもならない」程度の健康食品であれば、まだ危険性は薄いのかもしれませんが、なまじ身体に効果があるものだとこちらの危険性が問題になるだろうと思います。

刻み海苔によるO157食中毒の広がり 「安心!?食べ物情報」より

東京立川市の学校給食でO157集団食中毒が起き、大阪の海苔業者の刻み海苔が原因とされました。

今週の渡辺宏さんの「安心!?食べ物情報」によると、同じ製品により和歌山県御坊市大阪府大東市、福岡県久留米市O157食中毒が発生しているそうです。

 

http://food.kenji.ne.jp/review/review905.html

 

製造業者の大阪市の「いそ小判海苔本舗」は無期限の営業禁止処分となったそうですが、まだ流通には製品が残っているようです。

また、それにしても東京から福岡まで広範囲に流通しているのにも驚きます。

 

 

最初の事件の報道で流れていたその加工業者の工場の場面は私も見ましたが、素手でノリを一枚一枚機械にいれて刻むというもので、あれで手にウイルスが着いていれば全部汚染だなと納得してしまいました。

 

食品の加工流通には思わぬ弱点が存在するものです。

 

特に、この刻み海苔のような最終段階で加熱するということがない食品の場合はもっとも危険性を持つのでしょう。

 

 

なお、他にも渡辺さんが引用している記事は、アメリカのO157、水素水の騒動、健康食品の問題等、食品関係いろいろの問題点を指摘され、なかなか参考になります。

記事最後に、ご健康を害されているという記述がありますが、回復されることを祈ります。

「ミサイル防衛 日本は脅威にどう立ち向かうのか」能勢伸之著

北朝鮮国威発揚の手段としてミサイル開発に力を入れ、頻繁に発射試験を行っていますが、そのたびに防衛装置を配備しています。

それがどのようなものかということも、深くは知らないまま、本当にあれで守れるのかと疑っていましたが、そこには冷戦時代から続くミサイルの攻防の歴史があり、兵器開発の競争があったようです。

 

本書著者の能勢さんはフジテレビの報道に携わってこられた方ですが、防衛問題の担当が長くその経験を活かしてこの本を書きました。

2007年の出版ですが、その後さらにミサイルをめぐる事態は進展しており、10年前にはまだアメリカ本土を狙ったミサイルは無かったものがそれも可能となっています。

 

しかし、とりあえず10年前の状況を頭に入れておく必要はあるかもしれません。

 

そもそも「弾道ミサイル」とは何なのか。よく分かっていませんでした。

この本もその解説から始まっています。

 

弾道ミサイルの定義にもいろいろあるようで、中には不正確なものもあります。

そこで、その定義を次のように明らかにしています。

「やまなりの曲線(≒放物線)(これが”弾道”)を描いて標的に向かう誘導弾のこと」

だそうです。

したがって、発射直後から上昇の途中までで推進ロケットの噴射は終了しあとは慣性で飛行します。

これに対し、低空を噴射を継続して飛行し目的地に向かうのは「巡航ミサイル」と言います。

 

弾道ミサイルの元祖は第二次大戦中にドイツが発射した「V-2」でした。

イギリスなどを狙って発射され、ロンドンを狙った1500発のうち500発が着弾して2500人の死者を出しました。

 

その後、東西冷戦時代には米ソ双方で開発が進み、大陸間弾道弾(ICBM)や潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)が配備されました。これらは幸いにも実際に使われたことはありません。

 

弾道ミサイルを防ぐ方法の開発も進められました。

始めのうちは弾道ミサイルの進行方向の先で核ミサイルを爆発させて破壊するという物騒な方策が考えられましたが(ABMシステム)これは米ソの条約で廃棄されました。

 

その後、レーダーや衛星を使いミサイル発射を察知して迎撃ミサイルを発射し破壊するというシステム開発が進められ、現在ではかなりの実用性を持ち実戦配備されています。

 

本書の残りの部分では、ミサイルの探索をどうするのか、そして実際に迎撃するのはどうするのか、さらに北朝鮮のミサイルへの対応ができるのかという記述がされていますが、それは非常に詳細なものとなっており、とても簡潔にまとめることはできません。

(というか、内容が少し難しいようです)

 

そんなわけで、詳述はあきらめますが、特に面白かったエピソードだけ。

このような迎撃システムが最初に稼働したのは1991年の湾岸戦争の時だそうです。

しかも、その戦争中の短い期間の中で探査時間が短縮されていきました。

その結果、1999年のユーゴスラビア攻撃の際にはさらに向上した性能で臨めたそうです。

 

イージス艦は新型のものが何隻も就航していますが、そのうち1隻の迎撃能力を弾道ミサイルに最適なものにしたところ、他の航空機や巡航ミサイルに対する能力が激減してしまったそうです。

したがって、実際に運用する場合はそのイージス艦を航空機などから守る別のイージス艦を付き添わせる必要があるとか。

 

ミサイル防衛―日本は脅威にどう立ち向かうのか―(新潮新書)

ミサイル防衛―日本は脅威にどう立ち向かうのか―(新潮新書)

 

 

 

「古代日本のルーツ 長江文明の謎」安田喜憲著

著者は環境考古学が専門ということで、さらに元々は地中海文明を研究対象としていたのだそうですが、成り行きで中国の長江流域の古代文明の遺跡発掘に携わることとなり、その成果からこの長江文明というものが大きな意味を持つことに確信を持ったようです。

 

これまでの古代文明観といえば、4大文明と言われるエジプト・メソポタミア・インダス・黄河というもので、いずれも大河川流域に成立し小麦栽培の畑作による農業、都市の形成、青銅器、文字の使用といった共通点を持つものとして認識されていました。

 

しかし、中国でも南方の長江流域に見られる遺跡はどうやら稲作を行っていたようです。しかもどうも黄河文明に先行していたと見られます。

都市遺跡と言える規模のものが発掘されていますが、文字の使用は証拠が得られません。

 

これまでの古代文明の認識はあくまでもそれまでに知られていた4つの文明がたまたま同じような特徴を持っていたために何かそれがなければ文明とは見なせないかのような観念を作ってしまいましたが、それはどうやら誤りで様々な形の文明があったとしなければならないようです。

 

 古代文明が起こった地域はどこも乾燥地帯と湿潤地帯の境にあります。

乾燥地帯の草原には遊牧をする人たちが暮らし、湿潤地帯の大河流域には畑作農業をする人たちが住んでいました。

しかし、5700年前に気候が寒冷化したことが環境考古学の成果から分かっています。

そのために、北緯35度を境にその南では湿潤化が進む一方、その北の乾燥地帯ではさらに乾燥が強まりました。

その結果、家畜の草を求めて遊牧民が南下し農耕地帯に侵入したのが古代文明の発祥につながったということです。

 

長江流域では、それ以前にすでに米を作る農業が始まっていました。

麦作より集団的で組織的な農業が行われていたと見られますが、それだけでは文明化したとは言えなかったところです。

しかし、全世界的に起きた気候変動は長江流域にも影響を及ぼしました。

ただし、こちらでは6300年前と他の地域より600年早い可能性があります。これはこの地域の気候変動が他よりも早く起きたということによります。

つまり、他の文明より長江文明は早く起こったということにもなるようです。

 

長江文明では都市の遺構は残るもののそこには目立った金属器はありませんでした。

そのために、文明化していなかったと評されれることにもなったのですが、実はそれ以上に高い技術によって加工された玉器という「玉(ギョク)」を使った道具や装飾品が出土しています。

 

この文明を創ったのはどのような人々か。それは現在の中国西南部の山岳部に住む少数民族の苗族であろうとされています。

ただし、長江中流域の遺跡から現在苗族が住む雲南省などははるかに離れています。これは、他の文明と同様に北方からの遊牧民流入によるものと見られます。

文明を開いていた人々すべてが追われたわけではないのでしょうが、多くの人々が僻地に逃れました。

その一部が現在の苗族、そして東方の海に逃れた人々もいました。

東方に逃れた人々は海辺から朝鮮、台湾、そして日本にも達していたかもしれません。

縄文文化が苗族などの風習と似たところがあるのはそのせいかもしれません。

 

長江文明は「美と慈悲の文明」であると巻末に書かれています。

他の4大文明はどれも戦いで他を圧するものでした。

森が産んだこの文明はこの先の人類を救うものかもしれません。

 

 

 

「わかりやすい朝鮮社会の歴史」朴根鳳著

著者(「根」の字は本当は土偏)は韓国の民間の歴史研究者で、この本も韓国国内向けにあまり知られていない歴史を解説するというものになっています。

本書「はじめに」に書かれているように、韓国人が自国の歴史を振り返る時にともすると固定観念にとらわれる過ぎることがあるということです。

それは、謹厳さ、悲壮感、窮屈さ、退屈さといったものなのですが、実はそればかりではないということを自国民に知ってほしいと書かれたそうです。

 

朝鮮半島の歴史について、基礎知識すらあやうい日本人がそれを飛び越えて読んでしまって良いのか分かりませんが、まあ和訳本が出ているのですから良いのでしょう。

 

韓国人が自国の歴史でイメージするものは多くは李朝以降のもののようです。

それ以前の高麗より昔というものはなかなか想像できないということもあるとか。

 

儒教道徳が深く浸透した李朝以降とは全く違った道徳観が1400年前の新羅王朝時代には存在していました。

新羅王室では王室の血筋を守るために近親婚をしていたそうです。

また男女の交際も自由なもので、恋愛ということもあったとか。

今日の韓国人からは想像しにくいもののようです。

 

その頃の結婚というものも、嫁取りではなく新婦の家に夫が入る形だったそうです。

日本の古代とも合わせて考えると面白いものです。

これは女性の地位の高さとも関係していました。

また初期の高句麗では兄が死んだ場合は弟が兄の妻と結婚するという風習もありました。

これは遊牧民社会では広く見られることですので、高句麗の出自と関係しそうです。

 

嫁取り婚というものは李氏朝鮮になって中国の影響が強くなってから広く広まったそうです。

しかし、国の施策としてそれを強制しても一般にまではなかなか浸透せず、庶民までその習俗が広まったのはようやく16世紀頃、壬辰倭乱(秀吉の朝鮮出兵)の時代近くになってのことだったそうです。

朝鮮は儒教道徳だと考えると、時代によっては大きな間違いになりそうです。

 

韓国では現在はハンコ(印鑑)が優先する風習になっていて、古来からそうであったかのように感じられているそうです。

しかし、これも古文書を見ると書押や手決と呼ばれるサインが広く用いられていることが分かります。

公文書には役所の印鑑といったものが押されることもあったのですが、ハンコが一般化したのは日本による韓国併合のあとになってからだそうです。

 

日本の江戸時代、長崎に行き来していたオランダ商人が船の難破で朝鮮に流れ着いたことがあったそうです。

しかし、当時はそのような事情であっても流れ着いた外国人は帰国を許さずすべて抑留することとされていたとか。

その一人のハメルという人は13年の後にようやく脱出し長崎を経てオランダに帰ることができたそうです。

彼はその後「ハメル漂流記」という本を書いたということです。

 

こういった話は韓国人もあまり詳しく知らないことのようです。

 

わかりやすい朝鮮社会の歴史

わかりやすい朝鮮社会の歴史